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「弥生時代」の大幅な延長 (24)

「まさかの発見に頭の中まっ白」弥生から明治まで 2 千年分、生活の痕跡残る遺構

平安初期の史書「日本後紀」に水運拠点として登場する川港「淀津(よどつ)」の遺構が、桂川西岸(京都市伏見区)から見つかった。 調査した京都市埋蔵文化財研究所を驚かせたのは、生活した痕跡が残る遺構面が時代別に 10 面確認されたことだ。 水害を示す粗い砂の層はなく、弥生期から明治期まで 2000 年の間、人の営みが途切れなかったことがわかった。 発掘時の様子や発見の意義を聞いた。

「状態良好 奇跡的」

調査は、昨年 11 月 - 今年 3 月、長岡京跡・ 淀水垂大下津(よどみずたれおおしもづ)町遺跡(約 1 万 5,000 平方メートル)の約 1,600 平方メートルで実施された。 昨年末、地表から 1 メートルほど下で江戸期の面を確認。 ツルハシで一部を深く掘り下げた断面から、目視で見分けがつく濃淡の土層が見つかった。 「まさかの発見に、頭の中がまっ白になった。 すぐに弥生期の土器片が出始め、想定のはるか上をいった。」

調査研究技師の松永修平さん (31) は振り返る。 掘り進むと遺構面は計 10 面(厚さ約 3 メートル)になった。 弥生期の約 2 メートル下には、縄文期に 堆積(たいせき)した土層も存在した。 2 月頃から順次、現地入りした研究者らも「ただ事ではない」と驚いた。 3 月に訪れた西山良平・京都大名誉教授(日本古代・中世史)は「これほど長期にわたって続いた遺跡が、良好な状態で出土するのは奇跡的」と述べた。

30 メートル以上の堀も

国内外の土器・陶磁器片などの出土品は、整理用のコンテナ(縦 54 センチ、横 34 センチ、深さ 15 センチ) 214 箱にのぼった。 弥生期の土層からは、緑色の管玉石材や、東海、瀬戸内地方の土器片が多数出た。 当時、すでに遠隔地との交流があった証拠だった。

鎌倉期では、大型井戸の跡(直径約 4 メートル、深さ 3.6 メートル以上)に、平安後期の瓦片が補強材として埋まっていた。 鳥羽離宮でも使われていた高級品で、天皇家との関係や、淀津の繁栄がうかがえた。 室町後期 - 安土桃山期の堀は、長さ 30 メートル以上、幅 4 メートル以上になった。 堀の中からは、年号入りの木簡「こけら経」や、中国の皇帝が使った景徳鎮の皿も見つかった。 現在は山科区にある大徳寺の外周を囲んだ堀そのものの可能性が高まった。 松永さんは「文献からは読み取れない情報が満載の貴重な資料ばかり。 平安京や長岡京、淀城と関連づければ、2000 年の日本史を追える」と胸を躍らせる。

治水と保存 課題

調査は、国の淀川水系河川整備計画に基づき、桂川の治水工事前に実施されている。 終了後、遺跡は河床を下げるため掘削される予定。 相次ぐ発見を受け、市と埋蔵文化財研究所は、今年度の調査目的を遺跡の全体像を把握する方針に切り替えた。 今後、船着き場などの重要な発見があった場合、水害対策の工事と、遺跡保存という難しい課題が出てくることも予想される。

全国的に有名なケースは、広島県福山市の 草戸千軒(くさどせんげん)町遺跡だ。 1961 年、同じく河川整備に伴う調査で、川から中世の大規模集落跡が丸ごと出現。 調査は約 30 年にわたり、自治体や地元保存会が議論を重ねた結果、出土品の展示場所として県立歴史博物館が開館した。 実物大の中世の町並みも復元され、今も多くの人が訪れる。 遺跡活用の模索は始まったばかりだ。

今回の成果は、9 月 6 日から 10 月 2 日まで、京都市考古資料館(上京区)の速報展で紹介される。 (山口景子、yomiuri = 9-4-22)

淀津 = 平安京の南約 10 キロ、桂川と宇治川、木津川が合流する淀川の起点にあった川港。 他の津や伏見港とも共栄したが、1900 年の集落移転で姿を消した。

- 読売新聞 2022 年 9 月 4 日 -


大量人骨のなぞ明らかに? 鳥取・青谷上寺地遺跡で本格調査

「魏志倭人伝」で「倭国乱れ、相攻伐すること歴年」と記された 2 紀後半、殺傷痕のある骨も含め、大量の人骨が溝に散乱していたのはなぜか。 集落で一体何があったのか。 弥生時代最大級の集落跡がある国史跡・青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取市青谷町)の調査で、謎だった当時の集落の姿や、人々の暮らしぶりの一端が明らかになるかもしれない。

今回の第 20 次調査は今年度から 3 カ年の計画だ。 発掘場所は 2000 年に人骨が大量に出土した「SD38」と呼ばれる溝に近接する 225 平方メートルの区画。 今年度は予備調査で、縦 22 メートル、幅 27 メートルを機械で掘削後、深さ約 3 メートルまで慎重に掘り下げ、「SD38」の延長線上も含めて調査した。 遺跡の発掘方針を協議する「とっとり弥生の王国調査整備活用委員会」の調査研究部会(座長・木下尚子熊本大学名誉教授)が 11 月 18 日、同市青谷町であった。予備調査で人骨の一部が出土したことが報告され、来年度の本格的な発掘調査の方針を確認した。

遺跡は地下水が豊かで、木製品から脳が残った頭蓋骨まで多彩な遺物が良好な保存状態で出土することから、「地下の弥生博物館」とも称されてきた。 予備調査では、さまざまな時代の遺物が見つかった。 前頭骨や頸椎など人骨の一部のほか、シカやマグロの骨、骨角器、勾玉、土器、矢じりの「銅鏃(どうぞく)」、薄板を人の形に切り抜いた祭祀具「人形(ひとがた)」、宋銭などが確認された。 人骨は後世の土地利用で掘り返されて新しい地層に表出したとみられ、さらに下層の弥生時代後期の地層に人骨が眠っている可能性が高いという。

研究部会ではトレンチ(試掘溝)の場所や調査区域拡張の必要性を協議した。 来年度は 5 月から半年間かけて、「SD38」の延長線部分を掘削する。 出土した人骨や木製品はその都度、3D レーザー測量でデータを採取。24 年度に調査成果の整理や検討、木製品の保存処理などを行う。 今回の調査に合わせ、頭蓋骨などの人骨が大量に出土した 2000 年当時の発掘成果や出土状況なども再検討。 人骨がどんな状態で埋まっていたのかを詳しく調べ、集落の姿や謎の解明に迫る。 木下座長は「ここは普通の『墓』ではなく、何が起こったのかこれまでの研究も再検討する。 これから分かってくることがたくさんある。」と期待を寄せた。

遺跡を巡っては、頭蓋骨などから顔を復元した「青谷上寺朗」や全国公募したそっくりさんが大きな話題を呼んだ。 来秋には遺跡の一部が「青谷かみじち史跡公園」としてオープン。 遺跡への関心や盛り上げる機運が高まりつつある。 県とっとり弥生の王国推進課の浜田竜彦課長補佐は、「今後、さらに人骨が見つかる可能性が高い。 遺跡に関心のなかった方にも興味を持ってもらい、史跡公園に来て頂けるよう新しい情報を発信したい。」と意気込んでいる。 (大久保直樹)

- 朝日新聞 2022 年 12 月 8 日 -


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