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「弥生時代」の大幅な延長 (19)

「古事記」と「日本書紀」により、弥生の歴史は消滅してしまいましたので、残念ながら、弥生の勢力図が全く分からなくなってしまいました。 自ずと、銅鐸が何処で作られていたのかも、今のところ知る術がありません。 古墳時代、天皇家、およびその取り巻き勢力が台頭し、絶対的な力を握りましたが、その前に大和地方を含め各地に権力機構があったことを前提にしなければ、弥生の時代の解明は進みません。


淡路と島根の銅鐸が同型 … 作られたのは、どこ? 鋳型の記号一致

昨年 4 月に兵庫県南あわじ市で見つかった紀元前 3 - 前 2 世紀(弥生時代前期末 - 中期初頭)の松帆銅鐸 7 個のうち 1 個が、直線距離で約 200 キロ離れた島根県雲南市の加茂岩倉遺跡で 20 年前に出土した銅鐸 39 個の中の 1 個と同じ鋳型で作られた「同笵(どうはん)銅鐸」であることが 14 日、南あわじ市教委などへの取材で分かった。 関係者は「銅鐸の製作地や当時の流通ルートを知る手がかりの一つになる」とみている。

同笵銅鐸と判明したのは、松帆銅鐸の 3 号銅鐸(高さ 31.5 センチ)と加茂岩倉遺跡の 27 号銅鐸(同 31.4 センチ)で、3 号銅鐸の胴体部分の左下に「王」、27 号銅鐸には同じ部分に「土」という漢字に似た盛り上がった記号があった。 同じ鋳型で作られた際についたとみられ、鋳造時につく細かな傷の位置なども一致した。 加茂岩倉遺跡は、1 カ所での銅鐸出土数が全国最多。 大半が中型(高さ約 45 センチ)の内側に小型(同約 30 センチ)の銅鐸を収めた「入れ子」状態での埋納法だった。

松帆銅鐸も 3 組 6 個が入れ子状態で見つかった。 今年 2 月には 2 号(高さ 22.4 センチ)と 4 号(同 22.6 センチ)が、江戸時代に淡路島で発見され、南あわじ市の日光寺が所蔵している「中の御堂銅鐸」と同笵銅鐸であることが判明している。 難波洋三・奈良文化財研究所客員研究員は「当時から広い範囲で銅鐸が流通していたことが明らかになった。 銅鐸の製作地を考える上でも重要だ」と話している。

- 産経新聞 2016 年 10 月 14 日 -

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淡路島と出雲、つなぐ銅鐸 同じ鋳型で作った痕跡確認

兵庫県南あわじ市で昨年 4 月に見つかった松帆銅鐸(まつほどうたく、弥生時代前期末 - 中期初め) 7 個のうち 2 個が、島根県の 2 遺跡で出土した銅鐸とそれぞれ同じ石製鋳型で作られた「同笵(どうはん)銅鐸」だと確認された。 市教育委員会などが 26 日発表した。 銅鐸の製作や流通経路、淡路島と出雲地方の関係を探る上で貴重な発見という。

松帆銅鐸 7 個は市内の砂置き場で見つかった。 うち 1 個は、加茂岩倉(かもいわくら)遺跡(雲南市)から出土した 39 個の銅鐸のうちの一つと同笵で、高さ約 31.5 センチ。 漢字の「王」の字のような文様があり、加茂岩倉の銅鐸にも、似た文様の一部が見えるという。 大きさや鋳型のひび、欠けなどによる痕跡も一致した。 もう 1 個は、荒神谷(こうじんだに)遺跡(出雲市)で出土した銅鐸 6 個のうちの 1 個と文様の細部の特徴が同じで、高さ約 23.5 センチ。 鋳型の傷の痕跡も一致したことから同笵と判明した。 鋳型の傷による痕跡の多さなどから荒神谷の銅鐸の方が後に作られたとみられる。

さらに松帆銅鐸の別の 2 個は、南あわじ市で江戸時代に出土し、地元の寺に伝わる「慶野中の御堂(けいのなかのみどう)銅鐸(高さ約 22.5 センチ)」と同笵であることも発表された。 同笵の判定をした奈良文化財研究所(奈文研)の難波洋三・客員研究員は「淡路島と出雲の人々が同じ工人集団から銅鐸を入手していたことは、当時の銅鐸がかなりの遠距離を流通していたことを示す。 今後、原料をどこから入手したかも検討し、銅鐸の生産や流通を解明したい。」と話す。

兵庫県教委は「松帆銅鐸と荒神谷遺跡の銅鐸は古い形式のもので構成され、近くで銅剣がまとまって出土した点が似ており、淡路と出雲の共通性を示唆している」とみる。 市教委と奈文研は銅鐸の内部に付着していた植物の種類の判定や、放射性炭素による年代測定などを進めるという。 加茂岩倉との同笵銅鐸は四国や近畿など 10 カ所以上で、荒神谷との同笵銅鐸は京都府でも見つかっている。 (赤井陽介、編集委員・今井邦彦)

同笵銅鐸〉 「笵(はん)」は鋳型のことで、同じ鋳型から作られた銅鐸を「同笵銅鐸」と呼ぶ。 鋳型の細かい傷が銅鐸の表面に痕跡として現れるため、大きさが一致する銅鐸を詳しく観察して同笵かどうか判断する。 鋳型には使うほど傷が増えていくことから、銅鐸表面の痕跡の数で鋳造の順番を推定することもできる。

- 朝日新聞 2016 年 10 月 31 日 -


稲荷山古墳に「真のあるじ」? 未知の埋葬施設か

古代ヤマト王権の「ワカタケル大王(雄略天皇)」の名を金の線で記した「金錯銘鉄剣(国宝)」が出土した埼玉県行田市の前方後円墳「稲荷山古墳(5 世紀後半)」で、後円部中央の地下に、未知の埋葬施設の可能性がある構造物らしきものが確認された。 東北大の研究チームと県立さきたま史跡の博物館の共同調査でわかった。 「鉄剣の持ち主 = 古墳のあるじ」という見方もあったが、今回の発見は鉄剣の持ち主とは別に、古墳の「真のあるじ」が埋葬されている可能性を示すものだ。

鉄剣(長さ 73.5 センチ)は 1968 年、後円部で見つかった。 中央から少しずれた場所の地下約 1 メートル前後で、握り拳大の石と粘土をそれぞれ敷き詰めた「礫槨(れきかく)」と「粘土槨」の計 2 基の埋葬施設(長さ 5.7 - 6.5 メートル、幅 1.2 - 1.9 メートル)が発見され、そのうちの礫槨から鏡や武具、馬具などとともに出土した。 人骨はなかった。

鉄剣の表面では 78 年、保存処理のサビ落としの過程で、エックス線撮影で銘文が確認され、「辛亥(しんがい)年(471 年とされる)、杖刀人首(じょうとうじんのしゅ、親衛隊長)として獲加多支鹵(ワカタケル)大王を補佐したヲワケ臣が剣を作らせた」と解読された。 「ワカタケル大王」などの表記が日本書紀・古事記を裏付けるものとして大きな反響を呼んだ。

古墳は発掘が難しい国史跡のため、東北大東北アジア研究センターの佐藤源之(もとゆき)教授(電波応用工学)らが今年 11 月下旬、全長 120 メートルの古墳の後円部(直径 62 メートル)の中央付近をレーダーで探査。 地下約 2.5 メートルに、長さ 4 メートル、幅 3 メートル、厚さ最大 1 メートル前後のレンズ状の影を確認した。 外側に続きの部分があるとみられる。

レンズ状の影について佐藤教授は、石を敷き詰めたり集めたりして造った遺構などの場合に多く認められるとし、「何らかの構造物とみてよいのでは」と話す。 レーダーは電波の強さによっては実物より影を大きめにとらえる傾向があるが、今回はほぼ実物大に近いと考えられるという。 位置や深さからみて、墓に関わる最初の死者を葬った古墳本来の埋葬施設とも考えられ、2 基はその子弟らを後から「追葬」した可能性が出てきた。 鉄剣の持ち主だけでなく、「真のあるじ」の出自についても東国か畿内かという議論になり、東国をはじめとするヤマト王権の地方経営のあり方の解明に一石を投じる可能性が高い。

大塚初重(はつしげ)・明治大名誉教授(考古学)は「重要な発見だ。 発掘していないので、まだ確実とは言えないが、もし主体部(埋葬施設)であれば、今後、東国の古代史像は再考を迫られる。」と話す。 (川崎卓哉、編集委員・宮代栄一)

金錯銘鉄剣〉 表に 57 文字、裏に 58 文字の計 115 文字が刻まれ、日本語の文章として最古級とされる。 銘文の解読によって、熊本・江田船山古墳で明治初期に出土した鉄剣(5 世紀後半)の銘文も「文官がワカタケル大王に仕えた」と読むことができるようになり、ヤマト王権の支配が東国から九州まで及んでいたことが明らかになった。

- 朝日新聞 2016 年 12 月 30 日 -


淡路・舟木遺跡、弥生鉄器の大産地か 工房が集中

兵庫県淡路市の舟木(ふなき)遺跡で弥生時代後期 - 終末期(2 世紀中ごろ - 3世紀初め)の鉄器などの工房とみられる建物跡 4 棟や鉄製品が見つかった。 市教委などが 25 日発表した。 市内の弥生期の鉄器工房跡は、南西約 6 キロにある五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡(国史跡)に続き 2 カ所目。 市教委は、淡路島北部には「邪馬台国時代」まで鉄器工房が集中し、舟木遺跡がその中心だった可能性もあるとみている。

舟木遺跡は淡路島北部の標高約 150 - 190 メートルの丘陵部にある。 昨年 10 月からの調査で複数の場所を幅約 2 メートルの溝状に発掘し、直径 10 メートル前後の大型とみられる円形の竪穴建物跡 3 棟と、一辺約 4.5 メートルで角が丸い隅丸方形(すみまるほうけい)の竪穴建物跡 1 棟を検出した。

その中から刀子(とうす、ナイフ)や細長い針状の鉄器、鉄を加工した際に出た鉄片などの鉄製品計 57 点と、ハンマーとして使われた敲石(たたきいし)などが出土。 円形建物跡の 1 棟では、鉄を木炭で熱し、床面が赤く変色した炉の跡も確認した。 弥生時代終末期の溝からは、祭祀(さいし)に使われたとみられる多量の土器、タコつぼ、ミニチュア土器なども見つかり、付近に祭殿や首長墓など特別な施設があった可能性があるという。 (吉田博行、編集委員・今井邦彦)

- 朝日新聞 2017 年 1 月 26 日 -


弥生集落から中国・遼東の腕輪 魏志倭人伝の「一支国」

長崎県壱岐市の弥生集落遺跡、原(はる)の辻遺跡(国特別史跡)で 10 年前に出土した青銅製品が中国・遼東地域の腕輪の一部であることが、同県埋蔵文化財センターの調べでわかった。 同地域の腕輪は国内初の確認例で、弥生時代の日中交流を解き明かす新資料となる。 腕輪は銅釧(くしろ)と呼ばれるもので、中国の史書「魏志倭人伝」に登場する一支(いき)国の首都とされる原の辻遺跡で 2007 年に出土した。

破片でもあり用途は不明だったが、同センターの古澤義久さんらが再検討した結果、中国遼寧省鞍山市の羊草荘漢墓の出土品と形状や大きさがほぼ一致することがわかった。 このほど刊行された「九州考古学」第 92 号(九州考古学会発行)で報告している。 腕輪の残存部分は長さ 4.1 センチ、幅 1.1 - 1.2 センチ、厚さ 2.5 ミリ。 鋳造でできており、外側にはくぼんだ線が 4 本ある。 中国の出土例から弥生時代後期前半(紀元 1 世紀ごろ)に流入した可能性があるという。 中国では後漢代初頭ごろにあたる。

この時期、中国系の遺物は朝鮮半島北部に置かれた楽浪郡という中国の出先機関を通じて日本列島に流入したとされてきたが、この腕輪は中国でも遼東地域の一部に限られるためここから直接入手した可能性もあり、北方民族の烏桓(うがん)と関係するかもしれないという。 複雑な古代の国際交流を物語る貴重な手がかりとなりそうだ。 (編集委員・中村俊介)

- 朝日新聞 2017 年 11 月 28 日 -


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