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「弥生時代」の大幅な延長 (17)

箸墓古墳が卑弥呼の墓と比定されるのであれば、それ以前の弥生後期にも豊かな「ヤマト」が存在したことになります。 おそらく、最初に開けた北九州地方と、肩を並べるだけの力が既に蓄えられていたことになります。 残念ながら、言葉では残っていませんので、地道な考古学者の研究が、ますます貴重なものになります。


「初代出雲王」に迫る 出雲弥生の森博物館

弥生時代後期の西谷 3 号墓(島根県出雲市大津町)に葬られた「初代出雲王」に迫る特別展「出雲王登場 - とことん解剖 西谷 3 号墓」が出雲弥生の森博物館(同)で開かれている。 発掘調査で分かった、当時最先端の埋葬法や副葬品を、朝鮮半島など近隣の王墓と比較しながら展示している。 9 日まで(6 日は休館日)。 30 年前に発掘が始まった西谷 3 号墓は、東西約 50 メートルの巨大な四隅突出型墳丘墓。 島根大考古学研究室と同館が調査を進め、2015 年に報告書がまとまったため、特別展を企画した。

遺体を二重に囲む構造の木椁(もっかく)模型や日本では出土していないガラス製の小玉などの装身具を、中国・漢が朝鮮半島に設置した「楽浪郡」の王の出土品とともに展示。 出雲王が楽浪郡と交渉し、手に入れたことが分かるほか、同時期に活躍した吉備(岡山県)の王との交流がうかがえる出土品など計 530 点が並び、来場者が見入っている。 埋葬後、墓上での飲食儀礼で使った葬祭土器を復元した展示もある。 大人 500 円(高校生以下無料)。

- 山陰中央新報 2016 年 5 月 6 日 -


古墳時代の垣根、残ってた 火山灰に埋もれ保存 群馬

群馬県渋川市の金井下新田(かないしもしんでん)遺跡で、古墳時代後期(6 世紀初頭)の火山灰層から、植物を編んだ垣根に囲まれた建物の遺構や祭祀(さいし)用具などが見つかった。 県埋蔵文化財調査事業団が 11 日発表した。 古墳時代の垣根が見つかるのは極めて珍しく、火山灰に埋もれたために保存状態は良好という。

榛名山噴火に伴う火山灰層の下で、地域首長の政治・祭祀の拠点とみられる 55 メートル四方の囲い状遺構と、祭祀遺構が確認された。 囲い状遺構は、イネ科植物の茎をよしず状に編んだものを、1.8 メートル間隔で立つ柱の両側から挟んだ垣根で囲われていた。 垣根は当時、高さ約 3 メートルで、3 層にわたり厚さ 30 センチ前後の堅牢な作りだったとみられる。 (土屋弘)

- 朝日新聞 2016 年 5 月 12 日 -


前方後円墳のルーツ発見か 奈良で弥生末期の円形墓

奈良県橿原市の瀬田遺跡で弥生時代終末期(2 世紀中ごろ - 後半)とみられる円形の墓が見つかった。 奈良文化財研究所(奈文研)が 12 日発表した。 円形の一部に四角い突出部があることから、専門家は「前方後円墳のルーツではないか」と指摘する。

ポリテクセンター奈良(奈良職業能力開発促進センター)の建て替えに伴う発掘調査で確認された。 円の直径は約 19 メートルで、周囲を幅約 6 メートル、深さ約 50 センチの溝が巡る「円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)」。 周溝を含めた直径は最大約 31 メートルに及ぶ。 奈文研は、当時の奈良盆地で最大規模とみている。 突出部は南側にあったとみられ、長さは約 7 メートル。 墓への通路となる「陸橋」だったとみられる。 今回の調査では、7 世紀後半の藤原京の時代とみられる大型建物跡などの遺構も出土し、墓はその下層で見つかった。 墳丘は削られ、埋葬施設などは残っていなかった。

約 7 キロ北東の同県桜井市には、女王・卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡(国史跡、3 世紀初め - 4 世紀初め)がある。 遺跡内には最古の大型前方後円墳とされる箸墓(はしはか)古墳(3 世紀中ごろ - 後半、墳丘長約 280 メートル)のほか、後円部に比べて前方部が小さい纒向石塚古墳(国史跡、墳丘長約 96 メートル、3 世紀前半 - 中ごろ)などの「纒向型」前方後円墳と呼ばれる古墳も点在する。

前方後円墳は陸橋(突出部)が次第に大きくなって前方部に発展したとの説があり、今回見つかった墓は纒向石塚古墳を数十年さかのぼるとみられる。 石野博信・兵庫県立考古博物館名誉館長(考古学)も「この墓は前方後円墳のルーツとなる可能性があり、その後の前方後円墳に発展したのではないか」とみている。 現地見学会は 15 日午前 10 時 - 午後 3 時。 小雨決行。 問い合わせは奈文研の都城発掘調査部 (0744・24・1122)。(田中祐也)

- 同 上 -


平城京に弥生時代の水田の跡 長屋王邸があった一等地

平城京が営まれた奈良市中心部で、弥生時代前半(約 2,300 - 2,400 年前)とみられる広さ計 5,500 平方メートルの水田跡が見つかった。 奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)が 23 日、発表した。 平城京跡で弥生時代の大規模な水田が見つかったのは初めて。 調査しているのは奈良警察署跡の県有地(約 8 千平方メートル)。 川や水路の跡があり、一帯にあぜで細かく区画された水田が広がっていた。 水田 1 枚の大きさは約 3 - 50 平方メートルで、約 500 枚分見つかった。

平城京跡からはこれまでも弥生時代の小規模な水田や土器が見つかっていた。 森下恵介・奈良市埋蔵文化財調査センター所長は「平城京跡で弥生時代に人々の生活の営みがあったことが改めてきちんと裏付けられた。 この地域での弥生初期の稲作の始まりを考える上でも重要な成果だ。」と話す。 調査地は、平城京の時代に天皇の住まいなどがあり政治的な中心だった平城宮が造営された場所に近い。 政争で自殺に追い込まれた皇族、長屋王(ながやおう)の邸宅があった都の「一等地」にあたる。

今後、不動産開発大手の森トラストが購入し、東京五輪が開かれる 2020 年に向けて外資系ホテルを建てる計画がある。 奈良県教委文化財保存課の担当者は「遺構は保存しないが、調査記録は報告書として残したい」と話している。 現地説明会は 25 日午前 10 時から。 小雨決行。 問い合わせは橿考研 (0744・24・1101) へ。(田中祐也、栗田優美)

- 朝日新聞 2016 年 6 月 23 日 -


草舟 2 隻、30 時間超かけ西表島へ 3 万年前の航海再現

国立科学博物館などのチームによる、約 3 万年前に人類が沖縄に渡ってきた航海の再現実験で 17 日早朝、沖縄県与那国島から草舟 2 隻が出航した。 乗り込んだのは与那国島と、到着地の西表島に住む人たちを中心にしたメンバー。 30 時間以上かけて約 75 キロ東の西表島を目指す。 午前 7 時前、2 隻は外洋に向かって浜を離れた。 7 人ずつ乗り込み、6 人がかいでこぎ、1 人がかじを取った。 波がサンゴ礁にあたって砕ける海岸付近の難所を乗り越え遠ざかっていく草舟を、島民が水際の岩場から見送った。

舟には、3 万年前も存在した可能性があるドライフルーツやナッツ類、干し魚、水などを積んだ。 安全確保のため伴走船もつく。 当初は、途中で伴走船から食料の補給をしない予定だったが、2 日目に食べるそうめんは、食中毒を防ぐために伴走船から渡すことになった。 今回の実験は、現生人類ホモ・サピエンスが、約 3 万年前に南方から琉球列島に渡ってきた沖縄ルートの一部と見られる与那国島から西表島までの航海を再現して検証するのが目的。 当時は丸太を削ることのできる斧がなかったと考えられるため、与那国島に自生し、貝殻でも刈り取れる水生植物とツル性植物を材料にした草舟での実験になった。

伴走船に乗った航海実験の代表、国立科学博物館の海部陽介・人類史研究グループ長 (47) は出航前、「3 万年前の人類がどうやって海を渡ったのか、遺跡の人骨や石器の研究だけでは分からない。 偶然の漂流で渡るのは難しかったと思う。 食料や水などを準備し、よい天候を待って、意思を持って舟を出したと考えられる。」と話した。 草舟は当初、12 日に出航する予定だったが、強風と高波の影響で順延されてきた。 (神田明美)

- 朝日新聞 2016 年 7 月 17 日 -


箸墓古墳隣接地、国史跡指定を 奈良・桜井市が意見送付

邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説もある奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳の隣接地について、桜井市が国史跡の指定をめざしていることが分かった。 「古墳の出現やヤマト王権の成立過程を探る上で重要」などとして国史跡の指定を求める意見を、県を通じて文部科学相に送付しており、順調にいけば今年度中にも指定される見通しという。

朝日新聞が市に情報開示請求した資料で判明した。 箸墓古墳は邪馬台国の有力候補地とされる纒向(まきむく)遺跡の中にあり全長約 280 メートル。 巨大な前方後円墳としては最も古く、全国の前方後円墳の原型と考えられている。 墳丘部分は、第 7 代孝霊(こうれい)天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の陵墓として宮内庁が管理しており、市が史跡指定をめざすのは隣接する約 1 万 5 千平方メートル。 ほとんどが民有地にあたる。 (田中祐也)

- 朝日新聞 2016 年 7 月 30 日 -


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