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「弥生時代」の大幅な延長 (22)

奈良の八角墳、構造判明 専門家「文武天皇陵では?」

全国でも例が少ない八角墳・中尾山古墳(8 世紀初め、奈良県明日香村)の詳しい構造が判明した。 墳丘の外周に八角形状の石敷きが 3 重分あったことが確認され、石室は赤く塗られていた。 村教育委員会と関西大が 26 日発表した。 八角墳は天皇墓の特徴といい、専門家は飛鳥時代の文武天皇陵だった可能性が高まったと指摘する。 村教委と関西大は今年 9 月から、約 46 年ぶりに発掘調査を実施。 墳丘は 3 段の八角形で、下段(一辺約 8 メートル)と中段(同約 6 メートル)は石を敷き詰めて築かれていて、基壇状だった。 上段(同約 5 メートル)は、土を突き固めた版築土でつくられていた。

外周の石敷きは 3 重にめぐらされていた。 過去の調査では2重と考えられていた。 1 重目の一辺は約 8.3 メートル、2 重目は約 10.5メートル。 3 重目の正確な形は分かっていないが、石敷き全体も墳丘と同じく八角形だった可能性がある。 石室は、計 10 の石材を組み合わせて横に口が開いている「横口式石槨(せっかく)」と呼ばれる構造。 内部は約 90 センチ四方の空間で、壁面は丁寧に磨き上げられ、全体的に水銀朱で赤く塗られていた。 中央部には 60 センチ角のくぼみがあり、火葬した骨を収めた器を安置する場所だったとみられる。古墳全体では計約 560トンの石材が使われていたという。 会見した関西大の米田文孝教授(考古学)は、構造などについて「唯一無二の事例」と述べた。

天智天皇陵とされる御廟野(ごびょうの)古墳(京都市)など、八角墳は飛鳥時代の天皇墓の特徴という。 中尾山古墳の近くにある天武天皇と、その妻の持統天皇の合葬墓とされる野口王墓(のぐちのおうのはか)古墳(同村)も八角墳で、石室とみられる墓室の内部は朱塗りだったという。 文武天皇は持統天皇の孫。707 年に飛鳥の岡で火葬され、「安古(あこ)」という場所に葬られたと伝わる。 専門家らは立地や構造などから、それが中尾山古墳にあたると考えてきた。 一方、宮内庁は近くにある別の古墳「檜隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)」を文武天皇陵としている。

白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は「今回の調査で中尾山古墳が真の文武天皇陵である蓋然性(がいぜんせい)が高くなった」と評価。 猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(同)は、「文武天皇は持統天皇の影響が強く、(身分に応じて墳墓の規模を定める)薄葬も意識していた。 天皇としての権威も保てる八角形の火葬墓をオーダーメイドしたのかもしれない。 石槨内を赤く塗ったのは、天武・持統陵にならったのでは。(中尾山古墳は)文武天皇陵以外に考えることはできない」と指摘する。 現地見学会は 28、29 両日午前 10 時- 午後 3 時。 新型コロナウイルス対策に協力を求める。 小雨決行で駐車場はない。 村教委文化財課 (0744・54・2001)。 (清水謙司)

- 朝日新聞 2020 年 11 月 26 日 -


日本人の「完成」は古墳時代だった? DNA を分析、ルーツに新説

金沢市で見つかった約 1,500 年前の古墳時代の人骨の DNA 解析から、縄文人や弥生人にはなく、現代日本人に見られる東アジア人特有の遺伝的な特徴が見つかった。 日本人のルーツは、土着の縄文人と大陸から渡来した弥生人の混血説が有力だが、さらに大陸からの渡来が進んだ古墳時代になって古墳人が登場したことで、現代につながる祖先集団が初めて誕生したことを示唆している。 金沢大や鳥取大などの国際研究チームが 18 日、米科学誌サイエンス・アドバンシズに発表する。

日本人の起源は、列島に住み着いていた縄文人に、大陸からの渡来集団が混血して弥生人となり、現代の日本人につながったとする「二重構造モデル」が定説とされてきた。 1991 年に東大名誉教授だった埴原和郎氏が唱えた。 研究チームは、約 9 千年前の縄文人や約 1,500 年前の古墳人など計 12 体の DNA を解読。 すでに解読済みの弥生人 2 体のデータなどと比較した。 親から子に遺伝情報が受け継がれる際に生じるわずかな違いの痕跡から、どの集団が遺伝的に近いのかを調べた。

その結果、弥生人は、中国東北部の遼河流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴を持ち、縄文人と混血していることも確認できた。 一方、古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴を持っていた。 さらに、現代日本人と遺伝的な特徴がほぼ一致することも判明した。

大陸からの移住、新技術持って次々に?

大陸からの渡来人の大規模な移住は、約 3 千年前の弥生時代にさかのぼる。 研究チームは、それ以降も漢民族などの集団が次々に渡来し、織物や土木などの新技術を伝えて古墳時代を築き、現代の日本人につながっていったとみている。 古墳時代は 3 世紀後半 - 7 世紀にかけて続き、弥生時代末ごろには邪馬台国が栄えたとされる。 今回分析できた古墳人の骨は、金沢市で発掘された 3 体にとどまる。 新説を裏付けるには、さらに分析数を増やす必要があるという。

研究チームの金沢大古代文明・文化資源学研究センターの覚張(がくはり)隆史助教(考古科学)は「日本人が縄文、弥生、古墳の三つの祖先集団からなることを示す初めての証拠だ。 今後、ほかの古墳人や弥生人のゲノムを広く調べることで、日本人の起源の謎に迫っていきたい。」と話している。 論文は、当該サイト から読むことができる。(石倉徹也)

古墳時代とは - - 大和政権が支配し、各地に前方後円墳

縄文、弥生に続く 3 世紀後半 - 7 世紀までの時代。 農耕技術の発展や武器の普及などにより権力や富みが集中して階級社会が生まれ、大和地方を中心とする大和政権が成立。 指導者たちを葬った巨大な前方後円墳が各地に造られ、武具や鏡などが副葬された。 邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓との説もある箸墓(はしはか)古墳(奈良県桜井市)や、世界文化遺産の大山古墳(伝仁徳天皇陵、堺市)も有名だ。

- 朝日新聞 2021 年 9 月 18 日 -


伊都国「王墓」ガラス玉、「草原の道」から 中央アジア出土品と一致

福岡県糸島市の弥生時代末の墳丘墓・平原(ひらばる)遺跡で出土したガラス玉が、ユーラシアのシルクロードの一つ「草原の道」を旅してもたらされたとみられることが、奈良文化財研究所(奈文研)の田村朋美主任研究員らの分析で判明した。 日本や東アジアに類例がないガラス玉で、どこからもたらされたか不明だった。 18 日にオンラインで開かれた日本文化財科学会大会で報告された。 ガラス玉の成分が、モンゴルやカザフスタンで出土した類似品と一致した。

平原遺跡は「魏志倭人伝」に邪馬台国とともに登場する伊都(いと)国の王墓とされ、1960 年代の発掘調査で銅鏡 40 面や多数のガラス玉などが出土した。 今回分析されたのは、その中の青い 2 層構造のガラス玉が複数つながった「重層ガラス連珠(れんじゅ)」。 田村さんは、古代のガラス交易路の調査で訪れたモンゴルで、弥生時代と同時期に栄えた騎馬民族・匈奴(きょうど)の墓で出土したガラス連珠が平原遺跡のものと色や形がよく似ていることを確認。 また、奈文研とカザフスタン国立博物館の拠点交流事業でも、同じ連珠がカザフスタンの遺跡で出土しているのを見つけた。

そこでモンゴル、カザフスタン両国の研究機関や平原遺跡の出土品を収蔵する糸島市立伊都国歴史博物館と協力し、3 遺跡の連珠の成分を蛍光 X 線分析装置で測定。 その結果、どの連珠もナトロンという塩類を使ったソーダガラスで、アンチモン、マンガンなどの微量成分を含んでおり、同じ場所で作られた可能性が高いことが分かった。 ナトロンを使ったガラスはローマ帝国の領域だった地中海沿岸が原産とみられ、田村さんは「この連珠は、当時のユーラシアの東西を結ぶ交易路の中でも、中央アジアからモンゴル高原を通る『草原の道』で東アジアへ運ばれたのでは」と推定している。

東アジアの考古学を研究している西谷正・九州大名誉教授は「弥生時代と同時期、ユーラシアでは東の漢帝国と西のローマ帝国を結ぶ交流が活発化していた。 国際的な交流拠点の一つだった伊都国には、朝鮮半島を経由して海外の様々な物資がもたらされたのだろう」と話している。(今井邦彦)

- 同 上 -


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