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「弥生時代」の大幅な延長 (23)

5世紀の日本列島、権力は揺れていた? 文献と考古からの新視点

日本列島を貫く専制支配が確立したのはいつか。 巨大古墳が出現する 5 世紀こそ、大和王権の土台が飛躍的に固まる画期だったとの見方は強い。 が、実際は複数の勢力が全国各地で自立していたのではないか。 そんな列島社会の多重構造を主張する見解が文献史学と考古学の双方から提出され、注目を集めている。

古代国家の節目を 5 世紀に置く研究者は少なくない。 中国の史書『宋書』の倭国伝には中国に使いを出した「倭の五王」が登場し、武と呼ばれる最後の倭王はその上表文で、ようやく世を平定したと高らかにうたう。『日本書紀』からは、倭王武と同一視される雄略天皇が各地にひしめく有力勢力を弾圧し、全国支配を打ち立てたかに読み取れる。

それを裏付けるように稲荷山古墳(埼玉県)出土の鉄剣や江田船山古墳(熊本県)の鉄刀には雄略を示すワカタケルの名が刻まれ、列島の東西で中央への権力集中がうかがえるし、大阪平野に出現する大規模古墳群も暗示的だ。 これに対し、「5 世紀に安定的な統治体制があったとは考えられない。 各地の反乱伝承や王権内の混乱はそれを物語る。 倭王の力は決して隔絶したものではなかった。」 古代史が専門の古市晃・神戸大教授は、そういうのだ。

古市さんの考えは、こうだ。 5 世紀の大和政権は盤石と言いがたく、奈良南部を本拠とする倭王にも複数の王統がある一方で、京都南部や大阪湾岸など周縁各地にも王族が存在し、必ずしも倭王に従属したわけではなかった。 彼ら「周縁王族」と通じた奈良南西部や岡山の吉備、紀の川流域の大豪族もまた、航海術にたけた海人集団を介して朝鮮半島などの海外勢力と独自につながっていた - -。

そんな属人的で多重的な 5 世紀の政治構造が、6 世紀になるとシステムとしての支配体制に進んだ、と古市さん。 「そのプロセスを追って国家の成り立ちをたどると、また違った古代史の一面が見えてくると思う。」 では、考古資料や遺跡から眺めると、どうか。 5 世紀、古墳の造営は国内最大の大山(だいせん)古墳(堺市)や誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(大阪府羽曳野市)を含む「百舌鳥(もず)・古市古墳群」で極限を迎える。 従来これらの巨大前方後円墳は強大な支配者の象徴で、それらを頂点とした明確な階層と秩序が全国を覆った、と考えられてきた。

しかし、奈良県立橿原考古学研究所で多くの発掘調査を手がけてきた坂靖さんは、古墳の大型化はあくまで権力者相互の競争の結果にすぎず政治体制の反映ではないと異を唱え、やはり奈良盆地や大阪平野、紀の川河口部、吉備、北部九州などに複数の「王」が併存していたと主張する。 確かに、全国 4 位の規模を誇る造山古墳は岡山市にあるなど、巨大古墳はなにも近畿地方の専売特許ではない。

「古墳の規模やデザインはあくまで個人の嗜好(しこう)では。 5 世紀は各地に『国』や『王』が個別に割拠しており、専制的な支配機構は完全にできあがっていない。 中央と地方の関係ができあがるのは 6 世紀に九州で起こった磐井の乱が終わった後でしょう。」 たとえば史料は、奈良盆地南西部に葛城氏という大豪族がいたことを記す。 この地に広がる南郷遺跡群では政治・祭祀を執り行う建物や生産施設が確認されており、ここを葛城氏の拠点とみる坂さんは「生産や外交を独自にやっていたことがわかる。 単に大和王権を支える一豪族というだけでは、とらえられない。」

いずれの見解も「王」の位置づけなどに違いはあるものの、大きく見れば葛城氏や吉備、紀伊勢力が、ときに海人族や渡来人を介して海外でそれぞれ活動を展開したという点で共通する。 古代国家の権力基盤が整ったのはいつか。 5 世紀における中央集権的な全国支配という従来の図式とは、また違った古代史像が見え始めているようだ。(編集委員・中村俊介)

- 朝日新聞 2022 年 7 月 21 日 -


古墳時代の遺跡で新たな発見相次ぐ 群馬

古墳時代の遺跡で、新たな発見が群馬県内で相次いでいる。 当時の暮らしなどをうかがい知ることができ、専門家の注目を集めている。 前橋市の総社古墳群にある群馬県内最大規模の愛宕山古墳の墳丘は、少なくとも 3 段築成の大型方墳だと分かった。 これまで 2 段だと考えられていたが、発掘調査で新たに 3 段目が確認された。 愛宕山古墳を築いた豪族が、その権威を強めていたことを示すという。

前橋市教育委員会文化財保護課の小川卓也副主幹が 8 月 28 日、かみつけの里博物館(群馬県高崎市)で開催された歴史講座「かみつけ塾」で、発掘調査の成果を報告した。 愛宕山古墳は四角い形の方墳、墳丘の長さ約 56 メートル。 7 世紀前半の築造と考えられている。 それまでに築造された総社二子山古墳などは前方後円墳だった。 今回の調査で新たに確認された 3 段目は、こぶし大から人の頭ほどの大きさの川原石が 20 個以上、積み上げられていた。 高さは約 1.8 メートルから 2 メートル。 42 度の傾斜がついていた。

積み上げられた葺石が、二重構造の重厚なつくりだったことも確認できた。 外側は大型の石が使われ、内側との間に小さな礫(れき)が詰められていた。 段と段の間の平坦な面、テラスにも石が敷かれており、墳丘全体を石積みや石敷きで豪華に飾り立てていた。 愛宕山古墳は豪族が眠る玄室の長さが約 7 メートルある大きな横穴式石室だ。 玄室の奥には、家の形を模した凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式家形石棺が置かれており、墳丘だけでなく石室もぜいをこらした豪華なつくりとなっている。

総社二子山古墳までは 2 段築成だった。 7世紀に入って築造された愛宕山古墳以降は、3 段築成以上の高さのある古墳が 3 代にわたり造られている。 小川副主幹によると、段数を増やすには、その分盛り土や葺石の量が多くなり、位の高い豪族でなければ造ることができなかった。 愛宕山古墳は規模も県内最大で、その権威の強さが古墳の大きさや高さに表れており、当時「上毛野」と呼ばれた群馬県内一帯を治める立場にあったと考えられるという。

近くには、伽藍配置を備えた寺院「山王廃寺」が東日本でいち早く建立された。 小川副主幹は、古墳の築造技術に寺院建立の技術の影響がみられると指摘する。 「仏教が日本に伝わり、全国的に寺院づくりが広がる中で、愛宕山古墳に続く宝塔山古墳の石棺にも寺院などに用いられるモチーフが取り入れられており、古墳づくりにも仏教の強い影響が及んでいたと考えられる」と話している。(角津栄一)

群馬県渋川市の金井東裏遺跡では、新たに円墳とみられる古墳1 基のほか、畑や道などの遺構が周辺の地中に埋まっていることがわかった。 市の教育委員会が地中レーダーで探査し、見つけた。 金井東裏遺跡からは 2012 年、国内で初めて古墳時代の人骨が甲(よろい)をまとった状態で見つかった「甲を着た古墳人」が発掘されている。 古墳は 1 号墳と 2 号墳の二つの円墳がこれまでに見つかっている。

市教委によると、新たに見つかったのは、2 号墳の南東に隣接する場所。 墳丘の直径は 16 - 17 メートル、周囲の堀を含めると、およそ 30 メートルに達する規模と推定。 墳丘の中央には「主体部」と呼ばれる埋葬施設の存在も確認できた。 6 世紀初頭に噴火した榛名山の火山噴出物に埋まっていることなどから、5 世紀後半に築造されたとみられるという。 遺跡の西側では、畑や道とみられる遺構も確認でき、市教委は「当時の生活域が西側に広がっていたことがうかがえる」とする。

金井東裏遺跡を地中レーダーで調べるのは今回が初めてで、2 - 3 月に総延長約 1.6 キロにわたって探査した。 調査は 2025 年度まで続ける予定だ。 市教委は「遺跡の全容を明らかにしたい」と意気込む。 今回の調査では、遺跡の西側に位置し、大部分が地中に埋まっている金井丸山古墳(5 世紀後半)についても、地中レーダー探査を実施した。 墳丘の直径が約 26 メートルあることなどが判明し、当時の円墳としては市内で最大規模であることが新たにわかったという。

市は調査結果などを紹介する企画展を 9 月 13 - 29 日に市役所本庁舎の市民ホールで開く予定。 「甲を着た古墳人」の人骨をもとに作った復顔像なども展示する。 16 日午後 0 時 10 - 50 分に発掘調査の担当者によるギャラリートークもある。(前田基行)

- 朝日新聞 2022 年 9 月 4 日 -


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