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「弥生時代」の大幅な延長 (16)

中国瓦の話題は、「弥生時代」よりずっと手前、平安時代の歴史ですが、当時の皇族・貴族の衣裳が中国直輸入品であったことを考えると当然と言えば当然です。 弥生時代から古墳時代では、中国文化が殆ど朝鮮半島経由で伝えられていることと比較すれば、やはり日本の国力が飛躍的に大きくなったことの証なのでしょう。


中世博多の瓦は中国製 交易史物語る 鹿児島国際大

中世博多(福岡県)の発掘調査で出土した 12 世紀の瓦が、中国沿岸部で作られたことがわかった。 鹿児島国際大が科学分析し、9 日発表した。 日宋貿易が展開した当時の、日中交流の実態を物語る成果だ。

同大は、国際貿易港だった博多遺跡群(福岡市)や箱崎遺跡(同)出土の草花文が描かれた軒丸瓦を 3D 計測で正確に測り、中国南宋代の貿易港として栄えた寧波(中国浙江省)の瓦と比べた。 その結果、両者はピタリと重なり、同じ型で作られたことが判明。 土の組成も一致し、中国製の瓦がはるばる日本に運ばれたことが明らかになった。 博多に拠点を置いた中国商人がかかわった可能性が強いという。

これまで壱岐(長崎県)と平城京(奈良県)とで瓦が一致した例はあるが、国境を越えて約千キロも離れた例は聞いたことがないという。 国内出土の中国系瓦については、搬入説のほかに中国工人が日本で作ったとの見方もあり、中国製か日本製か決め手に欠けていた。 また、鹿児島県の薩摩半島西部や黒島出土の瓦も寧波の土と判明した。 (中村俊介)

- 朝日新聞 2015 年 7 月 12 日 -


渡来人の集会所? 奈良に最大級「大壁」、オンドル跡も

朝鮮半島の影響を強く受けたとされる「大壁(おおかべ)」と呼ばれる 5 世紀後半ごろの建物跡が、奈良県高取町の森ヲチヲサ遺跡で見つかった。 町教委が 30 日発表した。 大壁建物跡は奈良、滋賀両県などで確認されているが、今回は 1 辺約 13.5 メートルの方形で国内最大級。 渡来人の集会施設との見方も出ている。 幅約 50 センチ、深さ約 35 センチの溝の中に直径約 20 センチの柱を約 50 センチ間隔で立て、土を塗り込んで壁を造ったとみられる。 床下に煙を通して暖める「オンドル」の焚(た)き口や煙道の可能性がある遺構も見つかった。

一帯は渡来系集団「東漢氏(やまとのあやうじ)」の拠点とされ、大壁建物跡は同町内だけで約 40 棟確認されている。 日本書紀は、5 世紀後半に雄略(ゆうりゃく)天皇に仕えた渡来系文官、身狭(むさの)村主(すぐり)青(あお)と檜隈(ひのくまの)民(たみの)使(つかい)博徳(はかとこ)が呉(中国)に渡り、知識人らを連れ帰ったと記す。 猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は「文書行政や外交などを伝えた渡来系が居留した『異人館街』で、渡来系が一堂に会する集会所だったのでは」とみる。

現地説明会は 8 月 1 日午前 10 時 - 午後 4 時、近鉄壺阪山駅の西に徒歩約 15 分。 問い合わせは町教委 (0744・52・3715) へ。(塚本和人)

- 朝日新聞 2015 年 7 月 31 日 -


山陰最古の前方後円墳か 鳥取の浅井 11 号墳

鳥取県南部町の浅井 11 号墳は、築造時期が 3 世紀末 - 4 世紀初め(古墳時代前期)で、山陰地方で最古の可能性がある前方後円墳と分かり、島根大考古学研究室が 26 日の現地説明会で発表した。 3 世紀半ばに近畿地方で築造が始まったとされる前方後円墳が山陰地方に導入された時期を知る手掛かりになるという。 これまでは本高 14 号墳(鳥取市、4 世紀初め)が山陰最古の前方後円墳とされていた。

墳丘を測量したところ、後円部の直径約 26 メートルで、全長約 45 メートルの前方後円墳と判明。 後円部には、長さ約 5.5 メートル、幅 0.8 メートルの竪穴式石室があることも分かった。 板石を積んで石室の壁としており、石室の構造などから築造年代を推定した。

- 共同通信 2015 年 9 月 26 日 -


「卑弥呼の鏡」描いた江戸時代の古文書発見 岡山

卑弥呼の鏡と呼ばれる三角縁神獣鏡を描いた江戸時代の古文書が岡山県立博物館と岡山市の個人宅に計 2 点残されていたことが 10 日分かった。 古文書に描かれた鏡は見つかっていないが、記述から鏡が出土したのは前方後円墳の操山 109 号墳(岡山市中区平井)の可能性があり、大和政権から配布されたという三角縁神獣鏡の新たな出土例として注目を集めそうだ。

古文書 2 点は、鏡が掘り出された状況や、鏡 3 枚の図、鏡の銘文が記されていた。 2 点には 1806 年に「平井村」の「操山」にある古墳から鏡 8 枚が掘り出されたことなどが記されていた。 岡山県古代吉備文化財センターの宇垣匡雅所長は、記述の地名などから鏡が掘り出されたのは操山 109 号墳と推定。 「8 枚もの鏡が一度に見つかることは全国的にも珍しく、大和政権と吉備勢力の深い結び付きがうかがえる」と話す。

岡山県立博物館の佐藤寛介学芸員によると、古文書 2 点は、同一の鏡を別々の人物が描いていたことから、鏡の存在を裏付ける有力な証拠になるという。 鏡 3 枚のうち、2 枚は描かれた鏡の文様や銘文の特徴から、三角縁神獣鏡の一種の「唐草文帯四神四獣鏡」や「張是作六神四獣鏡」の可能性が高いことが分かった。

- 共同通信 2015 年 10 月 10 日 -


22 年ぶり「景行天皇陵」発掘調査 宮内庁が現場公開

宮内庁は 4 日、第 12 代景行(けいこう)天皇の陵墓として管理している奈良県天理市の渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳(全長約 300 メートル)の発掘調査現場を報道陣に公開した。 午後は考古・歴史学の研究者に公開する。 この古墳の調査は 1993 年以来、22 年ぶり。 古墳は 4 世紀後半に築かれた大規模な前方後円墳で、周濠(しゅうごう、水をたたえた堀)を巡らせている。 景行天皇は伝説上の英雄、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父と伝えられる。

宮内庁は、高さ約 23 メートルの墳丘(前方部 3 段、後円部 4 段)の整備工事を前に、墳丘北側の渡り堤(周濠を横断して墳丘に通じる部分)付近の 9 カ所を調査。 墳丘最下段や 2 段目で斜面を覆う葺石(ふきいし)や埴輪(はにわ)列、敷石を確認した。 測量時に墳丘上で多数の埴輪片が見つかり、矢を入れて背負う容器「靫(ゆき)」形の埴輪もこの古墳で初めて見つかった。 (編集委員・今井邦彦、栗田優美)

- 朝日新聞 2015 年 12 月 4 日 -


銅剣にサメの絵、弥生人が信仰? 日本海側で広がったか

鳥取県立博物館(鳥取市)が所蔵する弥生時代中期中ごろ(紀元前 2 世紀)の銅剣に、サメの絵が刻まれていたことがわかった。 鳥取県と奈良文化財研究所(奈文研)が 10 日発表した。 サメを描いた弥生時代の土器や木製品は日本海側で見つかっているが、青銅器では初めて。 そうした地域に「サメ信仰」が広がっていたとみられる。

銅剣は全長約 42 センチで、鳥取県の収集家(故人)の遺族が 26 年前に博物館に寄贈した。 箱書きには「鳥取県某神社伝来」と書かれているだけで、出土地は不明。 奈文研が光をあてるなどして調べたところ、柄を装着する部分のすぐ上にサメの絵(長さ 2.3 センチ)が見つかった。 流線形や二つの背びれなどの特徴から、イルカや魚ではなく、サメと判断したという。

「因幡(いなば、鳥取県東部)の白ウサギ」の神話が示すように、古事記の昔からサメは人々になじみ深かった。 絵が刻まれた弥生時代の土器や木製品は、鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)、兵庫県豊岡市の袴狭(はかざ)、島根県出雲市の白枝荒神(しろえだこうじん)などの遺跡で出土している。

今回、新県史づくりのため、調査を依頼した鳥取県立公文書館県史編さん室の湯村功専門員は、それらの遺跡では、よく似た装飾のある木製の高坏(たかつき)も見つかっていると指摘。 「弥生時代の山陰には交易を通して文化的なまとまりがあり、サメをシンボル的なものとして描いたのだろう。 何度も生え替わる歯やアンモニアを含んで腐りにくい肉を、再生や長寿の象徴としたのかも」と推測する。

銅剣のサメの絵は、頭と背びれにも見える三角形が T 字を作っている。 古代の漁民文化を研究している島根県埋蔵文化財調査センターの内田律雄さんは、頭が T 字状の「シュモクザメ」を描いたと推定。 青谷上寺地遺跡の絵もシュモクザメとみる。 「特異な姿をしたシュモクザメを神格化した信仰圏が、日本海沿岸を中心に広がっていたのでは。」

絵は、鋳造後に使用者が鋭い石器か金属器で刻んだものらしい。 銅剣の全長は、358 本と大量に出土した島根県出雲市の荒神谷(こうじんだに)遺跡の銅剣(全長 50 - 53 センチ)より短く、製作時期は古いとみられる。 同じ形の銅剣は佐賀県・吉野ケ里遺跡でも出土しており、九州製の可能性もある。 銅剣を調べた奈文研の難波洋三・埋蔵文化財センター長は「他地域から入手した銅剣に自分たちのマークを刻んだとみられ、鳥取の銅剣の祭祀(さいし)は出雲と異なる独自性があったようだ」と話す。

一方、銅剣とともに弥生時代を代表する青銅器の銅鐸(どうたく)には、農作業をする人やカエル、スッポンなど水田の動物、角の生え替わりが稲の再生を象徴するとされたシカなど、稲作に関係した様々な絵が描かれた。 東京大の設楽(したら)博己教授(考古学)は、島根県雲南市の加茂岩倉遺跡で 39 個が出土した銅鐸の一つにウミガメの絵があることに注目。 「日本海側では、稲作祭祀と海の祭祀が重層していたのでしょう。」

サメの絵の銅剣は 11 日 - 5 月 8 日、鳥取市の県立博物館 (0857・26・8042) で、青谷上寺地遺跡などのサメの絵がある遺物と共に特別展示される。(編集委員・今井邦彦)

- 朝日新聞 2016 年 2 月 10 日 -


古墳から未知の石室、物部氏有力者の墓か 奈良・天理

奈良県天理市豊田町の豊田狐塚(とよだきつねづか)古墳で、6 世紀半ばの未知の横穴式石室が見つかった。 市教育委員会が 6 日発表した。 ヤマト政権の有力豪族、物部(もののべ)氏の有力者の墓の可能性が高く、木棺の痕跡が 3 基分あったことから、当時の埋葬を探る手がかりとなるという。

都市計画道路の建設に伴う発掘調査で、全長約 4.4 メートル、奥壁の幅約 2.2 メートル、高さ約 2.2 メートルの石室を確認。 天井石などは失われていたが、壁面は 30 - 100 センチ程度の石材を積んでいた。 床面に残る木片から、手前に二つ、奥に一つの 3 基の木棺(いずれも長さ約 180 センチ、幅約 60 センチ)が安置されていた可能性があるという。 一部盗掘を受けていたが、須恵器 50 点以上や土師器(はじき)などの土器、玉類、馬具や武器などの鉄製品、鏡などの副葬品も残っていた。 (佐藤圭司)

- 朝日新聞 2016 年 4 月 7 日 -


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