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「弥生時代」の大幅な延長 (21)

下記、日田の「金銀錯嵌珠龍文」鉄鏡にしても、「桜井茶臼山古墳」の木棺にしても、まだまだ謎だらけ、どうして曹操の墓に眠っていた鉄鏡と同じものが九州・日田の山中にあったのか、「桜井茶臼山古墳」の被葬者は誰なのか、何も解明されていません。 致命的なのは、当時を記す文書が今の日本には存在しないことでしょう。


卑弥呼がもらった? 曹操墓出土と同型の鏡、なぜ大分に

"華麗さでは随一" と多くの考古学者が太鼓判をおす古(いにしえ)の鏡がある。 「金銀錯嵌珠龍文(さくがんしゅりゅうもん)鉄鏡」。 大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、装飾の巧みさから 1964 年に重要文化財に指定された。 由来を含め多くの謎が残るこの鏡が、三国志の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式である可能性が高まっている。 「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に - -。 研究者らは首をかしげる。

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が学界に紹介されたのは 63 年。青銅器研究に大きな足跡を残した考古学者・梅原末治 (1893 - 1983) が美術研究誌「国華」で取り上げた。 国華によると、直径 21.3 センチ、厚み 2.5 ミリ。 表面には金で龍文が、銀で爪などが象嵌され、所々に赤や緑の貴石をはめ込む。 中央に子孫の繁栄を祈る「長宜子孫」の 4 字(子は欠落)が金象嵌で刻まれている。

古美術商から購入し、表面を覆うさびを削ったところ、これらの装飾が確認されたと報告。 「中国本土でも(略)稀なこの鏡」と評した。 日田での出土品だと古美術商から聞いた梅原は、出土地とおぼしき場所を調査。 出土時に立ち会った人の話も聞き、33 年の鉄道工事の際に出土したものと推定した。 梅原は出土地の地名から、この遺跡を「ダンワラ古墳」と名づけたものの、埋葬施設の詳細は不明。 さらに、一緒に出土したとされる馬具は 6 世紀以降のごく一般的なもので、超一級の鉄鏡の持ち主にはそぐわない。 「本当にダンワラ古墳と呼ばれる場所から出土した鏡か」と疑問を呈する研究者も少なくなかった。

それから半世紀余。 新たな知見が明らかになったのは先月初めだ。 東京国立博物館で開催中の「三国志」展(16 日まで)に関連して開かれた学術交流団座談会でのことだった。 「X 線で調べたところ、象嵌の龍と思われる文様が見つかった。」 2008 年に曹操の墓と確認された「曹操高陵(河南省安陽市)」から出土した鉄鏡について、河南省文物考古研究院の潘偉斌研究員が発言。 「画像でみる限り、文様も装飾も日本の大分県日田市から出土したという鏡に酷似している。 直径も 21 センチでほぼ同じ大きさだ」と興奮気味に語った。

座談会に参加した東京国立博物館の市元塁・主任研究員は「ダンワラ古墳出土とされる鏡は後漢 - 魏のものと考えられており、曹操高陵出土の鏡は重要な比較資料になる」と話す。

地元は期待、考古学者は距離

曹操 (155 - 220) が礎を築いた魏。 その鏡といえば、中国の史書「魏志倭人伝」に有名な記述がある。 邪馬台国の女王・卑弥呼が魏の皇帝から「銅鏡百枚」を贈られた、というものだ。 大阪府立狭山池博物館の西川寿勝学芸員によると、中国では後漢末に銅銭が乱造されて銅の価値が下がり、鉄鏡の方が貴重品となった。 曹操自身も金象嵌の鏡を後漢皇帝に贈ったとの記録もあり、「魏でも最高の鏡はダンワラ古墳出土とされる鏡のような鉄鏡だった可能性が高い。」

そんな鏡が北部九州の日田から出土するには、どのような経緯が考えられるのか。 地元を中心に期待を込めて語られるのが、卑弥呼が銅鏡とは別に特に贈られたとする説。 卑弥呼の没後、その地か周辺に伝えられ、直後か数百年後に埋められたとみる。 邪馬台国九州説の論者には重要な材料で、日田説を唱える人も。 鏡の復元品は天領日田資料館の展示の目玉だ。

だが多くの考古学者はやや距離を置く。 九州大学の辻田淳一郎准教授は「出土状況や遺跡の時期が不明確なため、位置づけが難しい」と話す。 「中国でも最高級の鏡が日田地域で出土したことの説明が困難で、もしダンワラで出土したとするなら、近畿などの別の土地に当初持ち込まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる」とみる。 佐賀女子短期大学の高島忠平名誉教授は「ダンワラ古墳の出土品ではないのでは」と指摘する。

梅原の下で鏡を研磨した白木原和美・熊本大学名誉教授が今年、ある研究者の追悼文集に寄せた文章などが根拠だ。 ダンワラの鏡について、立ち会った人は石灰と一緒に須恵器に入れたと話したという。須恵器に入る程度の小さい鏡であることなどから、21 センチもある金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とは別の鏡だった可能性を示唆したという。 高島名誉教授は「出土地について古美術商が言うことは必ずしもあてにならない。 あの鏡を邪馬台国九州説の証しと考えるのは厳しい。」

狭山池博物館の西川学芸員は「出土地をめぐる謎は逆に深まった感があるものの、鉄鏡は日本列島の 5 世紀以降の古墳から 5 面前後出土しており、潘研究員の指摘がこれらを再検討するきっかけになるのでは」と話す。 (編集委員・宮代栄一)

- 毎日新聞 2019 年 9 月 8 日 -


ヤマト王権トップ? の木棺、初公開 桜井茶臼山古墳

古墳時代初めの初期ヤマト王権のトップにあたる大王の墓の可能性が指摘されている奈良県桜井市の大型前方後円墳、桜井茶臼山(ちゃうすやま)古墳(3世紀末 - 4 世紀初め、国史跡)から出土した木棺が、保存処理を終え、県立橿原考古学研究所(橿考研、同県橿原市)で初公開中だ。

10 月 31 日まで。 木棺は、橿考研が 2009 年の発掘調査で竪穴式石室から取り出したもので、コウヤマキ製で長さ 4.89 メートル、幅 75 センチ、厚さ 27 センチ。 底の部分が残っていた。 橿考研は 15 年から木棺の保存処理を進め、薬剤の溶液に 2 年半つけて木材を補強。 乾燥後に約 1 年かけて状態を観察してきた。

同古墳の石室は発掘調査で、大量の水銀朱が塗られていたことが判明。 水銀朱には赤色が邪気を払うとされたほか、防腐剤の役割もあったとみられる。 同じ時期の大型前方後円墳の多くは宮内庁の管理する陵墓や陵墓参考地に指定され、原則非公開とされている。

桜井茶臼山古墳の調査で、大王墓級の古墳の石室の構造が初めて明らかになった。 橿考研の東影悠(ひがしかげ・ゆう)・主任研究員は「大王墓級の木棺を近くで見ることができる貴重な機会です。 当時の姿を想像してほしい。」と話す。 公開は、橿考研 1 階アトリウムで平日の午前 8 時半 - 午後 5 時 15 分。 無料。 問い合わせは橿考研 (0744・24・1101) へ。 (田中祐也)

- 毎日新聞 2019 年 9 月 10 日 -


日本の文字文化は紀元前から? 「すずり」から推測

弥生時代から古墳時代にかけての石製品のうち、これまで砥石(といし)などとされてきた 150 例以上は筆記用具のすずりでは? 柳田康雄・国学院大客員教授(考古学)が最新論文でそう指摘している。 日本での本格的な文字文化の広がりは 5 世紀ごろともされるが、石製品がすずりなら、文字の使用が紀元前にさかのぼる可能性を示唆する。 奈良県桜井市の纒向(まきむく)学研究センターの研究紀要で 4 月 23 日に公表した。

「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する「伊都国(いとこく)」の都とされる三雲(みくも)・井原(いわら)遺跡(福岡県糸島市)で 2016 年、弥生時代後期(1 - 2 世紀ごろ)のすずりが見つかったことに注目。 邪馬台国の有力候補地とされる纒向遺跡(奈良県桜井市、2 世紀初め - 4 世紀初め)の出土例も含め、中国・近畿地方も含めた西日本一帯で、弥生時代などの石製品の実測や探索を進めた。 その結果、これまでは大半が砥石とされてきた石製品をすずりと判断した。 石製品がすり減ってできたくぼみや、墨のような黒色の付着物が観察できることなどが特徴という。

日本が倭国(わこく)と呼ばれた弥生時代中期中ごろ(紀元前 100 年ごろ)から古墳時代中期ごろ(5 世紀ごろ)までのものが中心で、当時の拠点集落からの出土物が多い。 分布範囲は九州のほか、中国、近畿、北陸に及ぶ。 今年に入ってから、松江市の田和山(たわやま)遺跡で見つかった弥生中期後半(紀元前後ごろ)の石製品に墨をすり潰した痕跡があることが指摘され、この石製品がすずりの可能性があるとも報告された。 すずりが見つかった三雲・井原遺跡では、中国・前漢が紀元前 108 年に朝鮮半島に設けた楽浪郡(らくろうぐん)の土器も多数出土している。 柳田氏は、倭国の文字文化が楽浪郡設置の頃までさかのぼる可能性も指摘している。

西谷正・九州大名誉教授(東アジア考古学)は「楽浪郡との接触が始まり、当時の日本に流入した漢文化の一つに、文字文化も位置づけることができる。 今回の石製品の全てがすずりかどうかについては慎重な検討が必要だが、西日本一帯に文字が広がったことを、すずりから推測できる点で支持したい」と話す。 (清水謙司)

- 朝日新聞 2020 年 5 月 7 日 -


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