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「弥生時代」の大幅な延長 (15)

奈良県明日香村を中心に遺跡などの発掘が進んでいます。 邪馬台国の九州・大和の論争とは別に、天皇制日本の原点がこの大和の地であることだけは間違いありません。 その大和の文化もしっかりと弥生の文化を背負ってきているのも証明されるようです。 真の日本の歴史の解明の為に、出来るだけタブーを取り除いて、更なる発掘と究明を進めて欲しいと願っています。


国内で初、奈良に大型ピラミッド方墳 蘇我稲目の墓?

奈良県明日香村の都塚(みやこづか)古墳(6 世紀後半ごろ)が、石を階段状に積み上げた、国内では類例のない大型方墳とみられることがわかった。 村教委と関西大が 13 日発表した。 ピラミッドのような特異な構造や天皇陵にも迫る規模から、多くの渡来人を配下に置き、天皇の外戚(がいせき)となって台頭した権力者、蘇我稲目(そがのいなめ、? - 570)ら、蘇我一族の有力者の墓との見方が出ている。

専門家「見たことない」 渡来文化影響か

1967 年の関西大の調査で 2 - 3 段に土を盛った一般的な方墳(一辺約 28 メートル)か円墳の可能性が指摘されていたが、今回、墳丘部の発掘でこぶし大 - 人頭大の川原石を積み上げた階段状遺構が出土し、東西約 41 メートル、南北約 42 メートルの方墳と判明した。 2 段目以上は高さ 30 - 60 センチ、幅約 1 メートルの平坦(へいたん)部を計 5 段以上、階段状に石と土を盛り重ねた構造(高さ 4.5 メートル以上)とみられる。同様の構造は、中国東北部から朝鮮半島北部を支配した高句麗(こうくり)の古墳との類似性が指摘されている。

稲目は娘を天皇に嫁がせるなどして馬子(うまこ)、蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)と続く蘇我氏全盛期の礎を築き、孫同士から聖徳太子(厩戸皇子〈うまやとのみこ〉)が生まれた。 都塚の一帯は、一辺約 50 メートルの方墳とみられ、被葬者として馬子が有力視されている石舞台古墳(特別史跡、7 世紀前半)があるなど蘇我氏の本拠地のひとつとされる。 白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館館長(考古学)は「こんな特殊な構造の方墳は国内で見たことがない。 蘇我一族の有力者の墓だろう。」と話す。

現地説明会は 16 日午前 10 時 - 午後 3 時。 問い合わせは村教委文化財課 (0744・54・2001)。(塚本和人)

都塚古墳〉 7 世紀の飛鳥京の中心部から南東に約 1 キロ離れた尾根の先端部にある。 横穴式石室(全長約 12 メートル)に凝灰岩をくりぬいた家形石棺が納められているが、盗掘されたとみられ、石棺内に人骨は確認されていない。 67 年の関西大の調査では木棺も安置されていた痕跡が見つかった。 副葬品には土師器(はじき)や須恵器、鉄鏃(てつぞく)などの鉄製品があった。

- 朝日新聞 2014 年 8 月 14 日 -

☆ ★ ☆

奈良のピラミッドは 6 段以上 都塚古墳、階段内部に大量の石 蘇我氏の墓、見方強まる

ピラミッドのように階段状に石を積み上げた、類例のない大型方墳とわかった奈良県明日香村の都塚(みやこづか)古墳(6 世紀後半ごろ)が、階段内部にも大量の石を詰め込んで造られていたことがわかった。 村教委の西光(さいこう)慎治調整員が 1 日、村内で開いた講演会で発表した。 階段は 6 段以上に及ぶこともわかり、特異な工法や規模から大豪族・蘇我氏の墓との見方が強まりそうだ。

村教委と関西大の調査で、川原石を階段状に計 5 段以上(高さ 4.5 メートル以上)積み上げた、東西約 41 メートル、南北約 42 メートルの大型方墳とわかり、昨年 8 月に発表された。 その後の調査で、階段の壁面部分だけでなく、テラス状の平坦(へいたん)部(幅約 1 メートル)の内部にも拳大 - 人頭大の川原石を詰め、表面を約 20 - 30 センチの化粧土が覆っていたことが判明。 階段は少なくとも 6 段分あり、さらに数段続くとみられる。 墳丘南東部ではコーナー部分も確認された。 当時は土を突き固める「版築(はんちく)工法」が導入されておらず、西光さんは「石詰めによって盛り土を補強した可能性がある」という。

大権力者の証し

被葬者をめぐり、築造時期や、蘇我馬子(うまこ)の墓と有力視される石舞台古墳(7 世紀前半)があるなど一帯が蘇我氏の拠点の一つだったことから、天皇の外戚(がいせき)となった馬子の父、蘇我稲目 (いなめ、? - 570) の墓説が出ている。 猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は「これほど高い技術力で古墳を造れたのは大権力を握った蘇我氏では」とみる。 現場はすでに埋め戻されている。 村埋蔵文化財展示室で 23 日 - 4 月 9 日、パネル展が開かれる。 無料。 問い合わせは村教委文化財課 (0744・54・5600) へ。 (塚本和人)

- 朝日新聞 2015 年 3 月 2 日 -


邪馬台国論争に新材料 卑弥呼の鏡? 「中国で発見」論文

邪馬台国の女王・卑弥呼がもらったとも言われ、製作地を巡り論争が続く謎の鏡・三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)。 これと同じ型式の鏡が中国河南省の洛陽市で見つかったとする論文が、地元の研究誌に掲載された。 論文を書いたのは河南省在住のコレクターで研究者でもある王趁意さん。 王さんは鏡について「2009 年ごろ、当時、洛陽最大の骨董(こっとう)市で、市郊外の白馬寺付近の農民から譲り受けた」と説明する。 正確な出土地点はわからないという。

鏡は直径 18.3 センチ。 厚さ 0.5 センチ。 三角縁神獣鏡としてはやや小ぶりで、内側に西王母(せいおうぼ)と東王父(とうおうふ)という神仙や霊獣、外側にノコギリの刃のような鋸歯文(きょしもん)と二重の波状の模様を巡らせる。

鏡が見つかった洛陽市は中国の三国時代に魏の都があった場所。 歴史書「魏志倭人伝」は、239 年に魏の皇帝が倭(日本)を治める邪馬台国の女王・卑弥呼に「銅鏡百枚」を与えたと記している。 日本では、100 枚の鏡は三角縁神獣鏡とみる意見が多かったが、肝心の中国から 1 枚も出土していないため、疑問が呈されてきた。 今回の発見はこの論争だけでなく、邪馬台国の所在地論争にも影響を与える可能性が大きい。

 明治大の大塚初重名誉教授は「写真を見ただけだが、三角縁神獣鏡に間違いない。 まだ 1 面だけなので、同種の鏡がさらに見つかるかどうか注意深く見守っていく必要がある」と話している。(塚本和人)

製作地巡り 2 説が対立

今回発見された「三角縁神獣鏡」の最大の特徴は、今まで中国の鏡では確認されていなかった、松の枝を重ねたような「笠松文様」がある点だ。 三角縁神獣鏡独特のもので、王さんは「外側の鋸歯文も日本の三角縁神獣鏡の典型的な特徴の一つで、中国の鏡にはほとんど見られない文様」と主張する。 実物を見た河南省博物院の張●(●は金へんに皆)生さんも「複数の研究者が実物を見たが、贋作(がんさく)などではない」と話す。 (塚本和人 編集委員・宮代栄一、編集委員・今井邦彦)

- 同 上 -


淡路島で銅鐸 7 個「数十年に一度の大発見」 土砂選別作業がきっかけ

兵庫県南あわじ市の玉砂利製造メーカーの砂山から、祭祀(さいし)などに使われたとされる銅鐸(どうたく)が 7 個見つかり 19 日、県教委が発表した。 紀元前 2 - 3 世紀(弥生時代前期末 - 中期初頭)に鋳造された古式の銅鐸で、多数確認例では加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)の 39 個、大岩山遺跡(滋賀県野洲市)の 24 個、桜ケ丘遺跡(神戸市)の 14 個に次ぐ 4 番目。 専門家は「数十年に一度の大発見」としており、謎の多い初期銅鐸を解明する資料になりそうだ。

銅鐸 7 個の大きさは高さ 31.8 - 22.4 センチ。 底幅 18.5 - 12.8 センチ。 3 組 6 個は加茂岩倉遺跡と同様に、大きな銅鐸に小さな銅鐸を入れ込む「入れ子」の状態で、埋納状態を復元する手がかりになるという。 また、1 個は菱環鈕(りょうかんちゅう)式と呼ばれる最古型式で、11 例しか確認されていない。 残る 6 個は外縁付(がいえんつき)鈕式という 2 番目に古いタイプだった。

3 個からは、銅鐸の内側に取り付け、打ち鳴らすための「舌(ぜつ)」と呼ばれる青銅製の棒(長さ約 13 - 8 センチ)も 3 本確認された。 青銅の舌が銅鐸と同時に見つかったのは珍しい。 舌は摩滅しており、実際に鳴らされたことを裏付けている。 今後、奈良文化財研究所で型式や模様などを詳しく調べる。 銅鐸は 4 月、玉砂利メーカーの砂山から見つかった。 砂は同市西部の松帆(まつほ)地区を中心に約 10 年前から集められていたというが、正確な出土地は不明。 7 個は松帆銅鐸と名付けられた。 県教委は今後、銅鐸の公開も検討する。

銅鐸研究の第一人者、難波洋三・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長の話 「数十年に一度の大発見。 古式の銅鐸である上、『舌』を伴っているのも珍しく興味深い。 埋納の際、鳴らす機能を奪うため舌を外すと考えていたが、淡路は例外だったようだ。」

- 産経新聞 2015 年 5 月 19 日 -


国内最古の銅鏡鋳型が出土 … 弥生中期前半

福岡県春日市教委は 27 日、同市の須玖(すぐ)タカウタ遺跡で、裏面に複数の鈕ちゅう(つまみ)がある多鈕鏡(たちゅうきょう)の石製鋳型が出土した、と発表した。 銅鏡の鋳型としては最も古く、弥生時代後期(紀元後 1 世紀頃)に始まると考えられていた銅鏡の国産化が、銅剣や銅矛などと同じ中期前半(紀元前 2 世紀頃)までさかのぼることを示す発見となる。

発表によると、鋳型は墓の跡から出土。 長さ 5.1 センチ、幅 2.5 センチ、厚さ 2.3 センチの破片で、鈕にひもを通す穴や、直線と曲線を組み合わせた文様が残り、復元できれば直径 15 センチを超える可能性もあるという。 銅鏡の鋳型は全国で十数点出土しているが、多鈕鏡の鋳型は初。 多鈕鏡はすべて朝鮮半島製と考えられていたが、その通説も再検討を迫られそうだ。

- 読売新聞 2015 年 5 月 28 日 -


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