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被爆者守った「命の橋」 戦前の装飾、もう一度

閃光(せんこう)、爆風、熱線 ・・・。 原爆のすさまじい衝撃に耐え、多くの被爆者の命をつなぎとめた橋がある。 広島市南区の「猿猴(えんこう)橋」。 金属が不足した戦時中に回収された装飾を再び施し、戦前の姿に戻す動きが進んでいる。 「核なき世界」への願いをもっと発信していく - -。 そこには、被爆地の強い思いが込められている。

「猿猴橋のおかげで生き延びられたんです。」 橋の近くで洋服店を営む尾津稔之さん (79) は振り返る。 広島に原爆が投下された 1945 年 8 月 6 日の朝、国民学校 5 年生だった尾津さんは自宅 2 階で朝食を食べていた。 爆風に襲われて全壊した自宅からはい出すと、隣の家が燃えていた。 「助けて。」 大きな柱に挟まれた女性から求められたが、何もできず、逃げるしかなかった。 「とにかく、親類がいる東のほうへ。」 そのとき、尾津さんが渡ったのが猿猴橋だった。 (岡本玄、朝日新聞 = 7-30-14)


インパール作戦 70 年 追悼や資料館 … 地元で継承広がる

1944 年に日本軍がインド北東部インパールの占領を目指し、多くの死者を出した「インパール作戦」から 70 年。 地元の人々が、激戦地の跡を調査し、散逸しつつある記録と記憶を掘り起こそうとしている。 地元政府も本格的な戦争資料館の建設に向けて支援に乗り出すなど、史実を刻む動きが広がっている。 インパール市内の住宅地。 表通りから未舗装の路地を進んだところにある民家の 2 階を訪ねると、鉄かぶとやさびた銃、不発処理された砲弾や戦闘機の座席とみられる部品、当時の写真など約 200 点がずらりとならんでいた。

ここに住むアランバム・アンガンバさん (41) が、友人のユンナム・ラジェシュワルさん (36) らと資金を出し合って今年 4 月に開いた私設の「インパール戦争資料館」だ。 アランバムさんはインド軍将校を父に持ち、インパールで行われた戦争に以前から関心があった。 一方、ユンナムさんは「戦争が起きて山中を逃げ惑った」と語る祖父母の話を聞いて育ったが、戦争の実態はよく知らなかった。

地元ではインパール作戦は「日本戦争」と呼ばれているが、広く語り継がれてはいない。 2 人は「すべてが失われる前に、自分たちの手で何が起きたかを調べよう」と、5 年ほど前からインパール周辺で戦跡の調査を始めた。 戦史などの資料を集め、戦闘の行われた現場を特定し、塹壕(ざんごう)のあとなどを発掘してきた。

兵器類だけでなく、日本兵が持っていたとみられる女性の写真や、「二六〇一」や「昭一七」といった製造年が刻まれた水筒などがみつかった。 2 人は共同で 2009 年に「第 2 次大戦インパール作戦財団」を設立。 さらに仲間を集めた。 調査活動を続けるうち「2014 年の作戦 70 周年にあわせ、犠牲者を追悼する式典を開くべきだ」と思い至った。 アランバムさんらは今年 3 月 23 日から、70 年前に地域ごとに戦闘があった日に合わせ、主要な戦跡など 13 カ所で順次、追悼行事を実施。 6 月 28 日には全体を締めくくる70周年記念式典を開いた。

観光資源としても期待

戦争の記憶を掘り起こす活動に共感し、後押しする動きも広がる。 英国で活動する俳優・映画監督の梶岡潤一さん (44) は、30 分の短編映画「インパール 1944」を自費で製作し、6 月の記念式典で上映した。 映画は、かつて戦った元英軍兵士の自宅を訪れて和解を求める日本人の姿を描いている。 兵士としてインパール作戦に参加し、戦後に英軍側との和解を求めて日英共同の団体「ビルマ作戦協会」を設立した故・平久保正男氏をモデルにしたという。

梶岡さんは「今回の映画をベースに資金と俳優を集めて長編映画をつくり、日、英、インドなどさまざまな国の立場からインパール作戦を描きたい」と話す。 資金集めなどのため、近く日本に一時帰国する予定だ。 地元マニプール州政府や観光業界も支援に乗り出した。 州政府は「戦争財団」とともに記念式典を共催した。 資料館を公的資金を使って移設・拡充して本格的な施設とする計画を立て始めた。

背景には、外国人を呼び込んで地域開発の起爆剤にしたいという狙いがある。 マニプール州はミャンマーとの国境地帯で、分離主義者による武力闘争なども抱えていたため、昨年まで外国人の立ち入りが制限され、開発が遅れている。 記念式典で実行委員長を務めたホテル経営者ダバリ・シンさん (65) は今年 3 月、広島を訪問。 「広島の平和公園には世界中の人が集まる。 インパールにも、ああいう平和を考える場をつくり、観光振興にもつなげたい。」という。

式典に参加した在インド日本大使館の川村泰久公使は「地元の人々の情熱に敬意を表したい。 日本に協力できることがあるかどうか検討したい。」と語った。 アランバムさんらは、日本軍側の記録や遺品の鑑定で「日本の専門家の力を借りられないだろうか」と話している。

独立めぐる内戦の側面

資料館をどんな視点でつくるべきか、という議論も始まっている。 インパールで戦ったのは日本軍と連合国軍だけではない。 日本軍と協力して進攻することでインド民衆の蜂起を促し、英国からの独立に導こうとしたインド人活動家チャンドラ・ボース率いる「インド国民軍 (INA)」も参戦。 多くの死者を出した。 一方で、連合国軍にも多くのインド人がいた。 英軍傘下のインド人志願兵だったフプフォラム・ヤイフェイさん (95) は「英軍に協力すれば戦後にインド独立が与えられると信じて戦った」と振り返る。 自国民がそれぞれの立場で独立を求め、銃を向け合った事実があるのだ。

インパールで日本軍を迎え撃った英軍司令官ウィリアム・スリム中将の孫で、式典に招かれた英オックスフォード大のヒューゴ・スリム上級研究員(人道倫理論)は、「インパール作戦には、植民地を巡る帝国同士の争いやインドの独立闘争など、多様な側面がある。 『連合国軍の戦勝記念』の場にするのではなく、連合国軍やインド人兵、日本軍、INA など、様々な立場から戦争と平和を包括的に考える場にすべきだ」と語る。(インパール = 貫洞欣寛、朝日新聞 = 7-22-14)

インパール作戦〉 英領ビルマ(現ミャンマー)を占領していた日本軍が、インド北東部から中国南部に延びる連合国軍の補給ルートを分断することなどを目的に、1944 年 3 月にインド北東部インパールの占領を目指して攻撃を始めた。 英植民地だったインドの独立を目指したインド人部隊「インド国民軍」も日本側に立ち参戦。 これを英米豪主体の連合国軍と傘下のインド人兵士らが迎え撃った。 日本側は 3 万人を超える死者を出して同年 7 月に撤退。 補給を軽視した無理な作戦で多くの兵士が飢えや病気で亡くなった。


被爆後症状、毒ガスと誤解? 長崎市民、マスク姿の写真

長崎市の爆心地近くをマスク姿で歩く人々を捉えた被爆直後の写真が、長崎市が行っている米国立公文書館の調査で確認された。 当時は放射能による被害が市民に知られておらず、被爆直後の急性症状は毒ガスが原因だと思っていた人もいたといい、そんな状況をうかがわせる一枚だ。

写真は、米軍が原爆投下から 1 カ月あまりたった 1945 年 9 月 16 日に撮影した。 撮影者は「ゴールドバーグ」とあり、同じ人物が同日に市内を写した写真も確認された。 同月 23 日に進駐軍が上陸する 1 週間前だったことから、先遣隊のメンバーとみられる。 爆心地の南約 500 メートルの浜口町(現・川口町)にあり、2 枚の防火壁だけが残った三菱重工業長崎造船所浦上寮のそばを、マスクを着けた女性らが歩いている姿が写っている。 (ワシントン = 岡田将平、朝日新聞 = 6-22-14)


人間魚雷「回天」後世に 漫画「特攻の島」と協力 山口

旧日本海軍の人間魚雷「回天」の最初の出撃から今年で 70 年。 訓練基地があった山口県周南市の周南観光コンベンション協会が、回天の史実を後世に伝える取り組みに乗り出した。 「平和の島プロジェクト」と名付け、漫画「特攻の島」を描いた佐藤秀峰さんと協力。 作品の主人公を使った PR を展開し、搭乗員の遺書などの「世界記憶遺産」登録をめざす活動も検討する。

回天は、太平洋戦争末期に旧海軍が極秘裏に開発。 魚雷を改造した 1 人乗りの特攻兵器で、潜水艦に搭載して出撃。敵艦に体当たり攻撃した。 全長約 15 メートル、直径約 1 メートル。 基地は周南市の大津島のほか、光市、平生町、大分県日出(ひじ)町の 4 カ所にあった。 最初の出撃は 1944 年 11 月。 搭乗員や整備員ら戦没者は 145 人に上った。

来夏は終戦から 70 年。 戦争体験者は減り、風化への危惧から同プロジェクトは企画された。 「特攻の島」の主人公が描かれた大型パネルを JR 徳山駅に設置し、「回天の島」へ誘う。 搭乗員が出撃前に周南市内で食べたというすき焼きの弁当のほか、カレーや菓子などの土産品を売り出し、収益はプロジェクトの活動費に充てる。 (奥正光、朝日新聞 = 5-18-14)


被爆の苦難、伝える決意 長崎大生、NY で演説・授業

核不拡散条約 (NPT) 再検討会議の準備委員会が開かれている米国・ニューヨークで、広島と長崎で暮らした女子大学生が平和の大切さを訴えている。 「被爆者の苦しみを繰り返してはいけないと身にしみて感じた。 私にはその実情を伝える責務があります。」 被爆者の思いを背負い、「核なき世界」の実現を求めている。

長崎大医学部 2 年の西田千紗さん (19) = 広島市出身。 ナガサキ・ユース代表団(8 人)のメンバーだ。 広島の高校に通っていたとき、東日本大震災が起きた。 テレビニュースで若い女性が「将来、子どもを産めるのでしょうか」と泣いていた。 放射線は目に見えないが、影響は長く続く。 「放射線の正しい知識を分かりやすく伝えたい」と、被爆者医療の実績が豊かな長崎大に進み、放射線医療を学んでいる。 (ニューヨーク = 山本恭介、朝日新聞 = 4-30-14)


少年飛行兵 足跡ここに

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兄の日章旗 70 年ぶり戻る

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本土への初空襲 自分が語らねば

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長崎の被爆者・松添博さん死去 「ふりそでの少女」描く

長崎の原爆で被爆死して振り袖姿で火葬された少女を描いた「ふりそでの少女」の絵で知られる被爆者の松添博(まつぞえ・ひろし)さんが 13 日、がんのため亡くなった。 83 歳だった。 通夜は 14 日午後 6 時 30 分、葬儀は 15 日午前 11 時から長崎市大橋町 14 の 16 6の大橋メモリードホールで。 喪主は妻君子さん。

14 歳の時、爆心地の北約 3.8 キロの長崎市滑石の自宅庭で被爆。 その 10 日後、畑で火葬される振り袖姿の 2 人の少女を見た。 その光景が忘れられず、1974 年に絵に描き、絵本「ふりそでの少女」として 92 年に出版した。

被爆の語り部としても活動し、語り部らでつくる長崎平和推進協会継承部会長を 2006 - 09 年に務めた。 また、市民グループ「紙しばい会」のメンバーとして、被爆体験を題材にした紙芝居を作り、読み聞かせをしてきた。 11 年に咽頭(いんとう)がんで声を失った後も、人工喉頭(こうとう)を使って語り部の活動を続けた。 「語り部は僕の生きがい。 平和のために絶対続けなければならない。」と語っていた。

長崎市の田上富久市長は、人工喉頭で松添さんが被爆体験を語るのを聞いてきた。 「どうしても語り継がないといけないものがあるという強い意志を感じた」と振り返る。 「包み込むような温かさがあって、それが多くの人に伝える力になったのでは」と語る。 「残念。 冥福をお祈りし、ありがとうございましたと言いたい。」と悼んだ。 (山本恭介、岡田将平、朝日新聞 = 4-13-14)


二つの空襲 描き伝える - サハリンと東京 -

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東京大空襲 : 69 年「二度とおきないように」慰霊の法要

約 10 万人が犠牲になったとされる東京大空襲から 69 年となる 10 日、東京都墨田区の都慰霊堂で、大空襲と関東大震災の犠牲者を悼む「春季慰霊大法要(東京都慰霊協会主催)」が営まれ、遺族ら約 320 人が参列した。 法要には、秋篠宮ご夫妻や舛添要一都知事らも出席。 舛添知事は「奪われた多くの尊い命と遭難者のみたまを深く哀悼します」と追悼の辞を述べた。

慰霊堂内には焼香台が設置され、多くの遺族らが犠牲者の冥福を祈った。 大空襲で父を失った東京都品川区の池田もと子さん (78) は「あんな悲しいことが二度とおきないように、父がやすらかに眠れるように、毎年お祈りに来ています」と話した。

1945 年 3 月 10 日未明にあった東京大空襲では、約 300 機の米爆撃機 B29 が焼夷(しょうい)弾を無差別に投下し、隅田川両岸の下町一帯に大きな被害が出た。 約 26 万戸の家屋が焼失、100 万人以上が被災し、原爆を除く通常の空襲としては史上最大規模の犠牲者が出たとされる。 (木村敦彦、朝日新聞 = 3-10-14)


母は黒こげになって私を守った 絵本で伝える東京大空襲

69 年前、炎から少女を守ろうと覆いかぶさった母親は、黒こげになって息絶えた。 「東京大空襲を忘れちゃいけない。」 少女はその後、母となり、折に触れて我が子に伝えてきた。 絵本作家となった息子が今年、その思いを絵本にした。

塚本千恵子さん (75) = 東京都足立区 = の体験を描いた「せんそう 昭和 20 年 3 月 10 日 東京大空襲のこと(東京書籍、税込み 1,260 円)」。 絵は次男やすしさん (48) が「子どもの頃から聞かされ、頭の中にこびりついていたイメージ」をもとに、千恵子さんに改めて話を聞き、資料にも当たって仕上げた。 千恵子さんは墨田区押上(おしあげ)で洋品店を営む両親のもとに育った。 戦火が激しくなると、父親は出征。 きょうだい 5 人は疎開し、小学校入学直前の千恵子さんだけ、母の松枝さん、祖父母と残った。

1945 年 3 月 10 日未明。 アメリカ軍の B29 が落とす焼夷(しょうい)弾の雨は家々を炎に包んだ。 当時 6 歳。 記憶はおぼろげだが、母に手を引かれて外に出ると、逃げ惑う人たちが持ち出した布団に火が次々と燃え移り、風にあおられた綿(わた)の火が、蛍のように見えた。 千恵子さんの服も燃え出した。 川の水をかけても、火の粉は次々と襲う。 松枝さんは千恵子さんを押し倒し、覆いかぶさった。 (朝日新聞 = 3-8-14)


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