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被爆者団体なくなっても … 証言集再発行めざす仏像修理士

被爆者の高齢化が進み、地域の被爆者団体もなくなったとき、体験をどう継承していくか - -。 そんな問題に直面した奈良市の仏像修理士の男性が、奈良県内で散逸した被爆者の手記などの資料を集め、編み直している。 本業と同様「いにしえに学び未来に伝える」との思いに動かされた。 入谷方直(いりたにまさなお)さん (45) は広島市生まれ。 1 歳で引っ越したが、母方の実家は広島にあり、街や被爆者に思い入れがあった。

大学で彫刻を専攻し、公益財団法人美術院の国宝修理所技師になった。 2013 年、広島市にある国重要文化財の仏像の修理を担当し、台座の傾きを直したり、漆の剥落止めを施したりしていて「奈良にいても広島のためにできることがある」と感じた。 それが、被爆資料と向き合うきっかけとなった。 奈良県では 06 年に県原爆被害者の会(わかくさの会)が日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)所属の県組織では全国で初めて解散していた。 調べてみると、会は被爆証言集を 86、90、95 年に計 3 冊出していたが、県内の図書館にさえそろっていなかった。 (大隈崇、朝日新聞 = 12-17-18)


戦争体験者の貴重な証言収録 新宿区が DVD 「今、残さなければ」

77 年前の 12 月 8 日に始まった太平洋戦争の体験を次世代に継承するため、新宿区は区内在住の戦争体験者や、広島と長崎の被爆者の証言を収めた DVD 「未来に語り継ぐ平和へのメッセージ」を作成した。 新宿は 1942 年の初空襲以来、たびたび被害を受け、終戦時には区内の 8 割が焼失した。 これまでも区は戦争体験者の話を聞く機会を設けてきたが、終戦から 70 年以上たち、体験者が減少。 「かくしゃくと話してくださる人がいる今、残しておかなければ(担当者)」と、貴重な証言を初めて DVD に記録した。

「区民の戦争体験」の章では、北新宿在住の佐久間國三郎さん (89) と富久町在住の小林八郎さん (85) がインタビューに協力。 終戦当時 16 歳の佐久間さんは焼夷(しょうい)弾が降り注ぐ中、病気の父や幼い弟妹を連れて命からがら逃げ延びた。 終戦当時 12 歳の小林さんは学童疎開での生活や、一時的に戻ってきた時の東京の印象、東京大空襲の数日前に再び疎開し被害を免れたことなどを語っている。

「被爆者の戦争体験」の章では、区が実施した広島、長崎への「親と子の平和派遣」にカメラが同行。 広島被爆者援護会の平和学習講師の石原智子さん、長崎平和推進協会の田川博康さんの話を収録した。 DVD の導入部分では、司会者の草野仁さんが出演し、太平洋戦争やその被害を、子どもたちに分かりやすく語りかけている。 DVD は区立小、中学校の平和学習で利用されるほか、全編が区のホームページで公開されている。 (宮崎美紀子、東京新聞 = 12-8-18)


「無傷の原爆ドーム」鮮明に 設計者の原画、広島で公開

核兵器の恐ろしさを伝え続ける原爆ドーム(広島市中区)が被爆する前の「広島県物産陳列館」の完成予想図の原画が見つかった。 設計者でチェコの建築家ヤン・レツル (1880 - 1925) が水彩で描いたもので、所有者から寄贈を受けた原爆ドーム近くの「おりづるタワー」が 24 日、一般公開を始めた。

建物は 1915 年に完成。 原画は横 87 センチ、縦 53 センチで、レツルが、県知事への説明資料として自身で用意したものという。 建物が「広島県産業奨励館」に改称された後も、館内 2 階貴賓室に飾られていた。 戦争の激化を受けて 44 年春、同館職員が別の場所に移していたため、原爆に遭わずに無傷で残った。

この職員の親戚が長く所蔵していたが、昨年、田中電機工業(広島市南区)の田中秀和会長 (68) が画廊を通じて入手。 「平和発信に貢献したい」とおりづるタワーへの寄贈を決めた。 この日の式典で田中さんは「在りし日の原爆ドームに思いをはせてほしい」と話した。 (宮崎園子、朝日新聞 = 7-24-18)

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ステンドグラス、往時の屋根色に 被爆前の産業奨励館

原爆ドーム(広島市中区)が被爆する前の「広島県産業奨励館」時代の姿をステンドグラスにして紹介しながら、ドーム前でボランティアガイドを続けている寺尾興弘(おきひろ)さん (77) = 広島市安佐南区 = が、奨励館の屋根をより忠実に「改修」した。 往時の姿を広く知ってもらい、原爆被害を身近に考えてほしいと願う。

寺尾さんの自宅は、奨励館の近く、鍛冶屋町(現・中区本川町)にあった。 本川の向こうに、いつも奨励館の楕円形の屋根が見えた。 父が中国で戦死し、1945 年 7 月、父の実家の祇園町(現・安佐南区)に疎開。 そこで 8 月 6 日を迎えた。 爆心地から 4.1 キロ。 その日のうちに市内中心部に家族で入った。 女手一つで兄弟 3 人を育てた母は被爆 23 年後、がんのため 57 歳で亡くなった。

自動車ディーラーを定年退職後に趣味で始めたステンドグラス。 2002 年、原爆ドームを 100 分の 1 の大きさで作った。 作品を見て、戦争に人生をむしばまれた両親の死を思い起こした。 「痛々しい姿のドームにも元気だった時代があった」と思い至り、被爆前の姿を作ることに。 14 年夏に完成させた。 翌年の春、ドームと奨励館の作品を携え、人に会うためにドーム前に行った。 箱から出すとあっという間に人だかりができた。 ボランティアガイドのリーダー、三登浩成(みとこうせい)さん (72) に誘われ、ガイドをすることになった。

ほどなく、「屋根の色が実際と違うのでは」と指摘を受けた。 銅が酸化した緑青(ろくしょう)の色だったらしい。 色みが分かる資料を探したり、実際にそうした建造物や銅像などを見たりして研究を重ねた。 ステンドグラスの色サンプルを探し歩き、「これでは」という色に巡り合ったころには 3 年の月日が流れていた。 昨年末、避雷針や細かい飾りなどもあわせて作り直す作業に着手。 3 月末に新しい屋根を取り付けた。 寺尾さんは言う。 「ちょっとでも本物に近づけたかった。 これを見て、原爆が奪ったものが何か、多くの人に考えてもらいたい。」 (宮崎園子、朝日新聞 = 5-8-18)


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