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被爆マリア、海を渡れ ゲルニカ 80 年へ捧げるレプリカ

最後の被爆地・長崎から世界で最初に無差別爆撃を受けたゲルニカへ - -。 原爆で倒壊した浦上天主堂の「被爆マリア像」のレプリカが 4 月、海を渡り、スペインのゲルニカに贈られる。 カトリック信徒で被爆者の西村勇夫(いさお)さん (83) = 長崎市 = が制作。 「世界の人々に核廃絶と平和を訴えてほしい」との思いを託す。

被爆マリア像は原爆で破壊された浦上天主堂のがれきの中から見つかった。 残っているのは頭部の 30 センチほど。 ほおは黒く焦げ、水晶が埋められていた両目は空洞になっている。 ドイツ軍によるゲルニカ爆撃から 80 年となる 4 月、現地で記念式典があり、長崎の被爆者やカトリック信徒らも参加する。

長崎からの訪問団が被爆マリア像のレプリカを現地の教会へ贈ることになり、西村さんは、カトリック長崎大司教区の高見三明(みつあき)大司教からレプリカ作りを依頼された。

教会の祭壇や調度品を作る指物師の西村さん。 これまで被爆マリア像の修復を手がけたことはあったが、レプリカ作りは初めて。 「多くの方の目に触れることは意味がある。 マリア様が核廃絶と世界平和を伝えてくれるのであれば。」と引き受けた。 (山野健太郎 真野啓太、朝日新聞 = 3-18-17)


全学徒隊の碑、沖縄県が建立 「知られざる歴史知って」

沖縄県は、県内の旧制中学校などの生徒が「学徒隊」として太平洋戦争末期の沖縄戦に送り出された事実を後世に伝えるため、平和祈念公園(同県糸満市)に「全学徒隊の碑」を建立し、14 日、除幕式を行った。 石碑は高さ約 2 メートル、幅約 3.4 メートル。全 21 校と学徒隊の名称を刻んだ。 沖縄の学徒隊はひめゆり学徒隊が有名だが、多くはあまり知られていない。

県などによると、学徒隊は県内の旧制中学や高等女学校など全 21 校から 2 千人を超える 10 代の若者が動員され、約千人が命を落としたという。 これまで学徒の慰霊碑は県内各地に点在していたため、数年前から合同碑の建立を求める声があがっていた。 除幕式には元学徒隊員ら約 50 人が出席し、戦死した仲間のために黙とうを捧げた。 梯梧(でいご)学徒隊で看護業務にあたった那覇市の吉川初枝さん (89) は、石碑の建立を「亡くなった仲間たちも喜んでいると思う。 ほとんど知られていない学徒隊のことを多くの人に知ってもらいたい。」と語った。 (吉田拓史、朝日新聞 = 3-14-17)


焼け野原の東京、失った家族 … 語り継ぐ 大空襲 72 年

東京の下町一帯が大空襲に見舞われた 72 年前の 3 月 10 日、多くの人が火の海のなかを逃げ惑い、一晩で約 10 万人もの命が失われた。 生き延びた人や遺族たちは、亡くした肉親らへの思いを胸に、平和を祈り続ける。 「ずっと苦しんで生きてきた。 もう二度と戦争をしてほしくない。」 千葉県柏市の豊村美恵子さん (90) は 10 日朝、入所している老人ホームで、あの日のことを思い返した。

当時 18 歳。 東京都深川区(現江東区)で軍服縫製工場を営む両親らと暮らしていた。 仕事は上野駅の切符販売係。 空襲があった夜は宿直勤務で、直後に地下道を通って上野の山に避難した。 朝。 黒くこげた服を着た人たちが上野駅の方に押し寄せてきた。 一面、すさまじい焼け跡。 何かにつまずいた。 黒こげになった人だった。 改めて周囲を見回すと、所々に焼死体があった。 川にも無数の遺体が浮いている。 家族を捜して歩き続けた。 遺体の顔を1人ずつ見ていく。 7 日目、母親を見つけた。 父と姉、弟も亡くなっていた。

約 5 カ月後の終戦直前。 赤羽駅で米軍機の機銃掃射を浴び、右ひじを撃たれた。 意識がかすむなか、思った。 「私も死ぬのかな。」 右手のひじから下を奪われた。

戦後、結婚したが、約 2 年で離婚。 手が不自由で、家事が十分できない自分が歯がゆかった。 空襲犠牲者の遺族会と出あい、戦争体験を語り始めたのは 70 歳を過ぎてからだ。 「あの悲惨さを語り継がなければ」と考えた。 あえて義手を見せながら話すこともある。 その活動も、高齢になり近年は減った。 いま、老人ホームでよくこう思う。 「戦争がなかったら、どんな幸せがあったんだろう。 違った人生を生きてみたいなあ。」 (黒川和久、編集委員・伊藤智章、朝日新聞 = 3-10-117)


東京大空襲を語り継ぐつどい

約 10 万人が亡くなったとされる 1945 年 3 月 10 日の東京大空襲を「語り継ぐつどい」が 5 日、都内で開かれた。 被災者の埼玉県草加市、藤間宏夫さん (78) は「2 度と戦争をやってはならない。 弱い市民が犠牲になり、強い方は犠牲にならない。」と語った。 当時 6 歳だった藤間さんは、東京・日本橋の自宅で被災。 「九死に一生を得た。 あっという間に火の海になり、母に手を引かれ、はうようにして火をかいくぐった。」と証言した。 江戸東京博物館(墨田区)で開かれ、約 350 人が参加。 被災者と子どもたちの交流を、子ども側の目線で描いた映像作品の上映もあった。 (共同通信 = 3-5-17)


元日本兵の遺品オークション禁止に 遺族要望で eBay

戦時中に寄せ書きされた日章旗など元日本兵の遺品がインターネットのオークションで売買されていることから、遺族らの要望でネット上の取引を禁止する動きが出てきた。 自主規制で取引禁止を決めたのは、米国のネットオークションサイト「eBay (イーベイ)」。 遺品の出品を見つけた場合には削除することとした。 出征の際に家族や友人らが名前やメッセージを寄せ書きした日章旗は、戦地で常に身につけられ、戦死した人の遺品になる。 だが、米兵らが戦利品として回収したものもあり、近年はネットオークションに出回るケースが相次いでいる。

日章旗の返還運動に取り組み、元日本兵の遺族と交流を続けている米国の民間団体「OBON (おぼん)ソサエティ」は 2013 年ごろから、eBay に取引を禁じるよう要望を続けた。 米オレゴン州在住で代表のレックス・ジークさん (63) は「遺族の気持ちを考え、売買はやめてほしい」と訴えてきたが、当初は「違法ではない」と反応が鈍かった。

転機は昨年 10 月 6 日の参院予算委員会の審議。自民党の有村治子議員がこの問題をただしたのに対し、塩崎恭久厚生労働相が「ご遺族の心情を害する」と答え、オークションの運営業者に対して自主規制を求めた。 レックスさんは、このやりとりの動画に英文訳をつけ、eBay の担当者に送付。 これが取引禁止に結びついた。 (井上充昌、朝日新聞 = 2-24-17)


「山本五十六は開戦反対」展示 真珠湾のアリゾナ記念館

安倍晋三首相とオバマ大統領が訪れた米ハワイ・真珠湾のアリゾナ記念館は、日本軍の攻撃を受け沈没した戦艦アリゾナの上に、1962 年に開館した慰霊施設だ。 アリゾナでは乗組員ら 1,177 人が死亡した。 白い外観が特徴の全長約 56 メートルの施設は、船でしか行き来できない。 中の壁には犠牲になった乗組員らの名前がびっしりと刻まれている。 年間約 160 万人が訪れるという。

記念館に向かう船の発着場付近は、国立公園局などが管理するビジターセンターの施設が並び、戦争資料などが展示されている。 かつては、米国側の被害中心の展示内容だったが、今は規模も広げ、日米双方の視点から歴史を語り継ぐ場へと様変わりしている。 2005 年ごろ、ダニエル・マルチネス主任学芸員らが「戦争の悲劇を理解するためには、日米双方の等身大の姿を示す必要がある」として展示内容の変更を計画。 10 年にリニューアルオープンした。

館内では、真珠湾攻撃の生存者や元零戦パイロットのインタビューを流す。 真珠湾攻撃を指揮した山本五十六・連合艦隊司令長官が米国留学の経験があることや、対米戦争には反対していたことも紹介。 広島で被爆し、12 歳で亡くなった佐々木禎子さんが作った折り鶴も、禎子さんの紹介文とともに展示している。 マルチネスさんは「キーワードはバランス。 互いの国の当時の状況を理解することで和解に向かうことができる。 この場所がそのきっかけになれば。」と話す。 (ホノルル = 高野裕介、朝日新聞 = 12-28-16)


九五式軽戦車・バンザイクリフ … 5 万の死、玉砕戦の末路

日本の委任統治領だった北マリアナ諸島サイパン島は、1944 年 6 月に戦場となった。 組織的抵抗は 7 月 7 日に終結。 旧日本軍は約 4 万 3 千人が戦死し、民間人も約 1 万 2 千人が犠牲になった。 島の北端へ追い詰められた女性や老人は、崖から次々と投身した。 そこはいま、「バンザイクリフ」と呼ばれている。 白い波頭が巻き上がる崖の上には 30 を超す慰霊碑。数百メートル離れた旧海軍の司令部跡には、樹木が絡みつく戦車があった。 「九五式軽戦車」。 主に偵察用だったが、玉砕戦へ投入された。 (編集委員・永井靖二、朝日新聞 = 11-26-16)


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ソロモンに沈む九七式飛行艇 甘い予測と慢心あだに …

太平洋戦争中に多数の艦船が沈没した南洋・ソロモン海の「鉄底海峡」。 そこには、旧日本海軍の「九七式飛行艇」も沈んでいる。 フロリダ島の南側に連なる三つの小島にあった旧海軍守備隊の基地。 1942 年 8 月 7 日未明に米軍の奇襲で全滅し、近くの海に停泊中の九七式飛行艇 7 機も全て炎上した。 九七式飛行艇は横浜 - サイパン間 2,600 キロを 10 時間、無着陸で飛んでいた。 航続距離が長く偵察向きだったが、空中戦には弱い。 なぜ、最前線にいたのか。 (編集委員・永井靖二、朝日新聞 = 11-25-16)


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零戦よ太平洋の島々に眠れ 精鋭パイロット、多数が戦死

機窓の雲の切れ間から、火山島が姿を現した。 サイパン島の北約 290 キロにある無人の「パガン島」だ。 同島には太平洋戦争中、旧日本軍が飛行場と守備部隊を置いた。 公刊戦史によると、島で米軍の空襲が本格化したのは 1944 年 6 月 12 日。 対空戦を挑んだ守備部隊は同年 9 月以降、弾薬節約のために反撃を中止した。 敗戦まで、1 日平均 20 機から爆撃を受けた。

活火山の南にある飛行場の滑走路跡は今、東半分が戦後の噴火による溶岩流に埋もれ、西半分には爆撃によるクレーター状の穴が多数残る。 その滑走路の西端に、零戦の残骸が見えた。 零戦の残骸は激戦地のパラオ諸島にも、「餓島」と呼ばれたガダルカナル島の密林にもあった。 同島の北西約 500 キロのトゥハ島には、同じ頃使われた零式水上偵察機も眠っていた。 (編集委員・永井靖二、朝日新聞 = 11-21-16)

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朽ちた艦船・零戦 … 南洋に今も 「餓島」と呼ばれた島

日本によるマレー半島、ハワイ・真珠湾への奇襲で太平洋戦争が始まってから 12 月 8 日で 75 年。 朝日新聞は本社機「あすか」で南洋の島々を取材した。 70 年以上の歳月を経た戦争の「語り部」は、今もその惨禍を訴え続けていた。 3 次にわたって海戦が繰り広げられたソロモン諸島の海には、日米の艦船が朽ち果てた姿をさらす。 座礁したまま赤さびた米軍の輸送艦 LST342 (全長 100 メートル)の船体は、当時の日本との物資供給力の差を見せつけるかのようだった。

ガダルカナル島の密林には、近年になって新たに見つかった零戦の残骸があった。 機体に市民からの献納を示す「報国 515 号」の表示が残る。 1942 年夏から半年続いたガダルカナル島の攻防で敗色を深めた日本。 輸送を無視した作戦は直接の戦闘を上回る餓死者を出し、この島は「餓島(がとう)」と呼ばれた。(編集委員・永井靖二、朝日新聞 = 11-19-16)


四日市の模擬原爆、亡くなったとみられる 2 人の身元判明

米軍が 1945 年 7 月、三重県四日市市に投下した模擬原爆について、市立下野(しもの)小学校教諭早川寛司(かんじ)さん (56) は着弾地点を突き止めたのに続き、爆発で亡くなったとみられる 2 人の身元を割り出した。 同所に住んでいた軍属の夫の元に、疎開先の同県旧美杉村(現・津市)から会いに来た妻子で、当時の様子も遺族から聞き取った。 模擬原爆は 45 年 7 月 20 日 - 8 月 14 日、原爆を正確に照準地に投下するための練習として、18 都府県の 49 カ所に繰り返し落とされた。

早川さんは四日市市の模擬原爆について、「犠牲者を特定して弔おう」と追跡していた。 約 40 年前に出版された同県の戦争体験の手記から「真っ黒な雨傘をさかさまにしたような爆弾」という、ずんぐりした模擬原爆らしい形容の記述を見つけた。 手記に記された時間帯や場所も、これまでの早川さんらによる現場での聞き取り調査と一致した。 手記の筆者の家族を通じ、遺族にたどり着いた。

亡くなったのは津市美里町家所(いえどころ)の元会社員茨木正勝さん (80) の母房子さん(当時 29)と、弟の恵巨(けいご)さん(当時 8)だった。 数十メートル先のため池の土手で爆発した爆弾の破片が木造官舎に飛び込み、房子さんの首や、恵巨さんの腹に当たったとみられる。 6 歳の三男、1 歳の長女も家にいたはずだが、無事だった。 (編集委員・伊藤智章、朝日新聞 = 10-24-16)

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「模擬原爆」着弾地を発見 地元教諭ら証言たどる 三重

広島、長崎に原爆を投下する前後に「訓練」として米軍が投下した 49 発の模擬原爆。 三重県四日市市の市立下野(しもの)小学校教諭、早川寛司さん (56) らが着弾地点の一つを突き止めた。 1945 年 7 月 24 日、同市泊村のため池の土手に落ち、2 人が犠牲になっていた。 「春日井の戦争を記録する会(愛知県春日井市)」が解析した米軍の模擬原爆投下一覧表などから、四日市市内には 7 月 24 日に 1 発、8 月 8 日に 2 発投下されたことは分かっていたが、うち 7 月の着弾地点が不明だった。

米軍資料では、投下時間は午前 7 時 40 分。 目標は「四日市重工業(地域)」と記されていた。 だが、天候が曇りで目視でなくレーダーで照準を合わせ、航空写真も撮れず、着弾地点を確認できなかったらしい。 市側の記録で合致するのは、旧同市四郷(よごう)出張所の「防空日誌」だった。 7 月 24 日の項に、「5 時 40 分警戒警報発令 / 6 時 20 分頃空襲警報発令 / 7 時 45 分前ノ山ニ投弾 …」とある。

時間は符合する。 ただ、「前ノ山」という地名はない。 早川さんは住民の協力を得て、元出張所南側の山付近を歩いた。 たどりついたのが今も残る旧海軍官舎。 当時から住む福堀利昭さん (79) らの証言で、農業用ため池「安政池」の土手に着弾したことが分かった。 (編集委員・伊藤智章、朝日新聞 = 8-16-16)


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