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み か ん 王 国 九 州

筆者の小学 4 年生の終わり、1953 年(熊本市が大水害に見まわれた年)、一家は、福岡、直方から熊本に移りました。 父の仕事は、それまで以上に忙しくなり、筆者が起きている内に父の顔を見ることも無くなってしまいました。 こんな状態を気遣かってか、土曜日の午後など、少し暇になった頃を見計らって、父は職場に呼んでくれました。

戦前から残る古びた木造の庁舎。 机の回りには、うず高く積み上った書類の山。 左右に掴んだ二つの受話器に向かってどなるように話していた父を、未だはっきりと覚えています。 勿論、実際の仕事のことなど口にするわけもありませんでしたが、一つだけ、実に穏やかに話してくれたことがあります。

里山に近い国有林を、農家の方々に使って貰い「みかん畑」にすると言い出したのです。 確かに当時は、まだまだ農家は貧乏で、新鮮な果物も十分ではありませんでした。 父が口にする、この遠大なプロジェクトは九州の山々がみんな「みかん畑」に変わりそうな勢いすら感じさせられました。

すぐさま筆者は質問しました。 「そんなにみかんを作ったら、価格が大幅に下がり、農家の方々が困ることになるのでは?」 まるで、その質問を待っていたように「大丈夫! 現在の価格の 3 分の 1 になっても経営を続けられるよ。」と、机の上の書類の束をもう一度見ながら答えてくれました。

勿論、九州の「みかん畑」が全部国有林の中にあったわけでは無いでしょうが、国有林を管轄する官庁が率先して動いたことが、みかん農家を大いに励まし、新しいみかん農家を増やすきっかけになったのは間違いありません。 その後直ぐ日本が高度成長期に入り、価格と出荷量の問題は解消しましたし、事実、これまでの経過を見れば、見事に「みかん王国九州」になりました。

父の目線の先には、常に現場で働く人々がありました。 生活の原点である「農家が豊になること」、これが父の人生のテーマの一つであったと信じています。 それを、己の机上で始められたことを、きっと幸せに感じていたでしょう。 筆者も、又、一人静かに誇りに思っています。

(2003 年 11 月 6 日記)


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