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ありのままの旅のスタイル (2)

勿論、ジョン万次郎は自らの意思でアメリカを旅したわけではありませんが、鳥島で米捕鯨船のホイットフィールド船長に救助され、一人米国で生活することになりました。 まだまだ、有色人種への偏見が高かった米東北部で、わけ隔てされることなく育てられ、学ぶ機会を与えられています。 鎖国が終わった明治期になり、万次郎は幸いに同地フェアヘーブンを再訪できました。 恩人のホイットフィールド船長は既に亡くなっておられましたが、奥様や共に育ったお子様たちと思い出を夜が明けるまで語り続けられたようです。 海洋捕鯨だけではなく、造船やカリフォルニアの金鉱採掘に従事するなど、米国黎明期を目の当たりににした唯一の日本人です。


ジョン万次郎の家保存へ 日野原医師の募金活動 1 億円に

江戸後期に米国の捕鯨船に助けられた土佐(高知県)の漁師ジョン万次郎こと中浜万次郎 (1827 - 1898) が米国で暮らした家が 5 月、「ホイットフィールド・万次郎友好記念館」になる。 歴史資料も展示し、日米友好の交流の場として保存されるという。

1841 (天保 12)年、14 歳で遭難した万次郎は捕鯨船で渡米し、マサチューセッツ州の港町フェアヘーブンにあるホイットフィールド船長の自宅で暮らした。 屋根裏部屋に住みながら、小学校から私立高校に通わせてもらい、数学、航海術、測量術などを学んだという。 10 年後に帰国し、江戸幕府の遣米使節団に通訳として同行するなど、初期の日米関係の発展に尽くした。

ホイットフィールド家は築 200 年ほどで今は誰も住んでいない。 聖路加国際病院の日野原重明理事長が 07 年、米国出張の際に競売にかけられていることを知り、買い取りと保存を呼びかけた。 国際協力機構 (JICA) の緒方貞子理事長ら日米関係に縁のある 35 人が 08 年 1 月、呼びかけ人に名を連ね募金を開始。 個人、法人から寄せられた約 1 億 300 万円をもとに記念館開設の会が改修を進めている。

フェアヘーブンはボストンから南東に車で 90 分ほどで、人口約 1 万 7 千人。 「マンジロー」はいまでも知られており、通った学校や教会、家庭教師の家などゆかりの建物をつなぐ「マンジロートレイル」と呼ばれる散歩道がある。 記念館開設の会は改修が終わる 5 月、家をフェアヘーブンにある NGO に寄付し、ともに運営に携わっていく計画だ。 現地からは茶室や日本式庭園も造りたいという要望もあり、募金活動は 3 月まで続けられる。

日野原さんは「黒船のペリーよりも早く日米を往復して日本のあけぼのを築いた万次郎のことを、多くの若い人たちに知ってもらいたい」と話す。 問い合わせは、「記念館」開設募金事務局(03・3265・1907)へ。(宮地ゆう)

- asahi.com 平成 21 年 1 月 11 日 -


元祖ホームステイ? ジョン万次郎の恩人宅を修復

【ニューヨーク = 田中光】 少年の時に漂流民として米国生活を経験し、帰国後は幕末の日米関係構築に貢献した「ジョン万次郎」こと中浜万次郎が米マサチューセッツ州に到着した日にあたる 5 月 7 日、万次郎が身を寄せた米国の恩人旧宅が修復を受けて記念館としてオープンする。 記念館になるのは、捕鯨船で日本近海を航海中、漂流していた万次郎を救って米国に連れ帰り、面倒をみたホイットフィールド船長の自宅。

マサチューセッツ州フェアヘーブンに今も残る邸宅は当時の趣を残すが、築 200 年を超え、老朽化が進行していた。 このことを知った聖路加国際病院理事長の日野原重明さん (97) らが、日米友好促進の立場から修復に向けた募金を呼びかけたところ、今年 3 月までに約 1 億 1 千万円が集まり、開館にこぎつけた。

開館の日には、日野原さんや、万次郎から 5 代目にあたる中浜京さんをはじめ、元駐米大使ら 100 人以上が駆けつけ、草の根の日米交流の重要性を再確認する予定だ。 自分も父親も米国留学の経験がある日野原さんは「民間レベルの文化交流こそが平和を探る道だ。 日米関係の礎をつくった万次郎の功績を再確認したい。」と訴える。 現地で準備を進めてきたジェラルド・ルーニーさんも「草の根交流の象徴として、大切に保存していきたい」と話している。

- asahi.com 平成 21 年 4 月 26 日 -


ジョン万次郎、今も日米の懸け橋 上陸地で式典

日米の懸け橋になったジョン万次郎が遭難の末、米東海岸に着いたのは 171 年前。 その同じ港町に、万次郎を救ったのとほぼ同じ型の米国の捕鯨船が姿を現し、現地時間の 28 日に歓迎式典がある。 このイベントを機に現地で万次郎に光が当たる一方、日本では名古屋に住む子孫が日米友好の活動を今も続けている。

万次郎は 1841 年、14 歳の時に漁に出た高知県沖で遭難。 米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救われた。 ホイットフィールド船長に才覚を見いだされ、そのまま米国へ。 43 年、ニューヨークから 275 キロ北東の捕鯨基地ニューベッドフォードに上陸した。

万次郎の原点であるこの港町に 26 日、現存する米国最古の捕鯨帆船チャールズ・W・モーガン号(1841 年製、全長 34.4 メートル)が現れた。 北極海で 83 年に沈没したハウランド号(30 年製、同 34.1 メートル)と同じくニューベッドフォードで造られた。 ほぼ同型のモーガン号の寄港は、万次郎が米国に上陸した時の風景の再現といえる。

米国東海岸の海洋博物館「ミスティック・シーポート」が捕鯨史を振り返るイベントとして企画。 1921 年以来の航海となるモーガン号を、寄付など約 1,100 万ドルを費やし修復した。 今年 5 月に保存先の同館を出発。 ニューベッドフォードやボストンに寄り、8 月に同館に戻る行程だ。 米国は現在、反捕鯨の立場だ。 日本の捕鯨拠点、和歌山県太地町の学芸員で、ニューベッドフォード捕鯨博物館の顧問学芸員を務める櫻井敬人さん (42) は「米国捕鯨船が帆走する姿が見られる最後の機会だろう」と話す。

寄港に合わせてニューベッドフォードでは特別展が開かれ、20 人を超す研究者が世界の捕鯨史などについて講演する。 櫻井さんが話すテーマは万次郎だ。 日本を離れていた約 10 年間のうち、約 6 年を2 隻の捕鯨船上で過ごしている。 「米国捕鯨船は世界の海を自由に往来し、船員の出自に関わらず能力を評価した。 鎖国中の日本からきた万次郎にすれば、自由と自立を重んじる米国の象徴として捕鯨船を見たのではないか。そう伝えたい。」

子孫「友情は国を超える」

万次郎直系 5 代目の中濱京(きょう)さん (50) は、ニューベッドフォードへのモーガン号寄港を「まさに歴史の復活という感じ」と喜ぶ。 名古屋市在住。 万次郎以来、中濱家の住まいは東京だったが、京さんの父で名古屋大医学部卒の医師、博さん(故人)の代に移った。 中濱家と、万次郎を救ったホイットフィールド船長の子孫の交流は続いている。 船長は万次郎に教育を授け、息子同然に育てた。 1940 年、ホイットフィールド家は米大統領の特命で「平和の使節」として来日。 開戦回避に努めた。

戦災で中濱家は万次郎ゆかりの品を多く失った。 身につけたもので唯一残るのは、漆と金箔で装飾された笠。 1860 年に訪米使節団の一員として咸臨丸に乗った際にかぶったという。 会社員の京さんは、多い時で月に 1 回、万次郎についての講演で全国に出向く。 日米間には今も、環太平洋経済連携協定 (TPP) など国益をかけた厳しい交渉が迫られるテーマがある。だからこそ、特に学生向けの講演ではこう語りかける。

「グローバル化が叫ばれ、難しいものと捉えるかもしれないが、基本は人と人のつながり。 万次郎とホイットフィールド船長のように、人間同士の友情は国の違いや時代を超える。」 (保坂知晃)

〈ジョン(中濱)万次郎 (1827 - 98) 〉 今の高知県土佐清水市出身。 14 歳の時に遭難し、捕鯨船に救われ米国へ。 航海術や測量術、捕鯨などを学ぶ。 故郷へ 25 歳で戻り、ペリー来航を機に幕府直参に登用。 開国を巡る日米交渉で幕府に助言し、翻訳や通訳に携わった。 明治維新後も東京大学の前身の開成学校で教授として英語を教えるなど、後進の育成に尽くした。

- asahi.com 平成 26 年 6 月 28 日 -


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