日本人の受けた戦争被害 (1)

太平洋戦争末期の日本全土への空襲

この時期ですから、やはり比較してしまいます。 米国は今、空爆の場所を懸命に選別しているようですが、58 - 59 年前の日本が受けた空襲は、ご覧の通り無差別でした。 広島、長崎の原爆は別にして、通常の爆弾投下や戦闘機からの機銃掃射も一部あったようですが、大半は焼夷弾の投下による被害です。 木造家屋が密集する日本の町は、焼き尽くす目的のこの焼夷弾が最も効果的だったのでしょう。 そして、多くの一般の人々が猛火に包まれて犠牲になりました。 忘れもしない個人的な思い出は、昭和 20 年 6 月 28 日、九州の佐世保です。

「朝日新聞」から、他に「空襲」関する記事を集めてみました。

記事コピー : 2003 年 1 月 30 日 / 2003 年 3 月 5 日 / 2003 年 3 月 7 日 / 2003 年 3 月 10 日



- 朝日新聞 2003 年 3 月 26 日 -



東京大空襲・学童疎開に関するイベント

記事コピー : 2005 年 3 月 4 日 / 2005 年 3 月 5 日 / 2005 年 3 月 22 日

- 朝日新聞 2005 年 3 月 4/5/22 日 -


東京大空襲から 60 年 各地で式典、遺族ら平和祈る

米軍の爆撃で一夜にして約 10 万人の命が奪われた 1945 (昭和 20)年 3 月の東京大空襲から 10 日で 60 年になった。 現在の墨田、江東、台東区など東京の下町一帯は焦土となり、人々は街をおおう猛火の中を逃げまどった。 60 年を経たこの日、惨劇を思い、平和を祈る法要や追悼式、集会が東京都内各地で行われる。

墨田区の都慰霊堂では、午前 10 時から都慰霊協会による空襲と関東大震災の犠牲者の春季慰霊大法要があった。 会場には遺族多数が集まり、犠牲者を悼んだ。 午後 1 時からは豊島区で都主催の「平和の日記念式典」が開かれた。 60 年の節目に参加者は例年の 4 倍、約 2 千人が参加した。 江戸川区や台東区などでも追悼式などがある。

東京大空襲は、60 年前の 3 月 10 日午前 0 時過ぎに始まった。 サイパン島などから飛来した米軍の B29 爆撃機約 300 機の大編隊が、隅田川両岸の浅草や本所、深川など木造家屋が密集した地域に、無差別に焼夷(しょうい)弾の雨を降らせた。 約 2 時間半の空爆で投下した焼夷弾は約 1,700 トン。 折からの北西の風にあおられて燃え広がった。

真夜中の街を炎が渦を巻いて走り、「真昼のように明るくなった」といわれる。 神奈川県からも赤い空が見えたという。 猛火の中で人々は逃げまどい、女性や子どもたちが避難した学校で焼死したり、熱さを逃れようとしてプールや川で死亡したりした。 当時の警視庁の発表では、この日の死者は 8 万 3,793 人、けが人 4 万 918 人、被災者 100 万 8,005 人、被害家屋は 26 万 8,358 棟とされた。 行方不明者も多く、犠牲者は約 10 万人に上るという。

官邸に展示された、終戦直後に米軍が撮影した
東京の空撮写真を説明する細田官房長官

当時、米軍は日本の木造家屋を効果的に焼き尽くすことを研究し、グリセリンなどをガソリンと混合して油脂状にした高性能の焼夷弾を開発。 この大空襲で主力として使用した。

- 朝日新聞 2005 年 3 月 10 日 -


終戦直後の東京、カラー写真を官邸に展示 細田長官収集

終戦直後、焼け野原となった東京都心を空撮したカラー写真のパネルが 22 日から、首相官邸内で展示された。 戦後 60 年を機会に戦後の復興ぶりを各国首脳ら来客に知ってもらうのが狙い。 細田官房長官が旧通産省の官僚時代に石油公団事務所長として米国に赴任していた 83 年当時、米国の在郷軍人会などに協力を呼びかけて集めたものの一部で、同じ位置から撮影した現在の東京の姿も並べて展示されている。

写真は、45 年 11 月に米軍が空撮した 5 枚で、皇居や国会議事堂、東京駅の周辺など、焦土と化した東京の様子が見てとれる。 細田長官がこれらの写真を入手したのは、知人の元米兵が占領下の日本で撮影したカラー写真を保存していたことがきっかけ。 「このままでは貴重な記録が散逸してしまう」と呼びかけたところ、知人らの協力で日本各地の様子を写した約 1 万枚の写真が集まった。 その中の約 300 枚は、戦後 40 周年だった 85 年に、毎日新聞の写真グラフ誌にも掲載された。

小泉首相は 22 日夜、記者団に「発展途上国の皆さんも、日本もこういう時があったんだ、それから立ち直ったんだと、元気を出してくれればいいと思う」と語った。 細田長官も「外国の首脳には、日本が大きな戦争被害を受けていたことを知らない人も多い。 これらの写真をみて、平和の尊さと復興の偉大さを認識してほしい。」と述べた。 写真の一部は、首相官邸ホームページの小泉内閣メールマガジン 179 号の編集後記から見ることができる。

- 朝日新聞 2005 年 3 月 23 日 -


東京大空襲と原爆被害者、国家賠償を求めデモ

東京大空襲と原爆の被害者らが国家補償を求めて初めて手を組み、「国際反戦デー」の 21 日、空襲で大きな被害を受けた東京・浅草をデモ行進し、「すべての戦争被害者・遺族に差別なき償いを」と訴えた。 参加したのは、国に損害賠償と謝罪を求める集団訴訟の準備を進めている東京空襲犠牲者遺族会と、原爆による被害者の有志ら計 130 人。昨年 3 月に都内で開かれた東京大空襲展をきっかけに市民グループが呼びかけて実現した。

現在、国の補償は旧軍人・軍属とその遺族に限られ、空襲の被害者や遺族らは対象となっていない。 原爆についても、救済対象は放射線による被害だけだ。 デモに先立つ集会で、犠牲者遺族会の星野ひろし会長は、「国が謝罪も補償もしていないのはあまりにひどい。 原爆被害者と心を一つにして世論を高めていきたい。」とあいさつした。

- 朝日新聞 2006 年 10 月 22 日 -


東京大空襲、国を提訴 被災者ら 112 人

62 年前、一夜のうちに約 10 万人の命が奪われたとされる東京大空襲の被災者や遺族 112 人が、国に総額 12 億 3,200 万円の損害賠償と謝罪を求める集団訴訟を 9 日、東京地裁に起こした。 空襲被害を受けた民間人として初の集団訴訟。 原告側は「民間人被害者に何も援助をせず、切り捨て放置した国の責任を問う」として、国家補償が整備された旧軍人・軍属と一般戦災者との格差の是非を問い直す。 遺族を含めた原告の平均年齢は 74 歳で、最高齢は 88 歳。

原告側は「東京大空襲が国際法違反の無差別爆撃だったことを裁判所に認めさせ、戦争を始めた政府の責任を追及したい」として、旧日本軍が中国・重慶で繰り返した爆撃などが米軍の作戦に影響を与えた点についても責任を明確にしたい考えだ。 一般戦災者への補償や死亡者の追跡調査、追悼施設建設も求める。

戦傷病者戦没者遺族等援護法は、軍人・軍属で障害を負った人やその遺族に年金を支給するよう定めている。 同法を一般戦災者にも適用しないのは違法として、名古屋空襲の被災者 2 人が国家賠償を求めた訴訟は、最高裁で 87 年に敗訴が確定。 一、二審判決は「援護法の趣旨は国の使用者責任で補償すること。 民間被災者との差別には合理的理由がある。」とした。

中山武敏弁護団長は「空襲については被害者すべてを救済するのが世界の『人権水準』。 一般戦災者を切り捨てた国による差別が今も続く苦しみを耐え難いものにしている。」と訴えている。

- 朝日新聞 2007 年 3 月 9 日 -


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