アウシュビッツ解放 60 周年 (3)

ユダヤ人社会では知らない人のいない、唯一の日本人、杉原千畝さん。 天皇ご夫妻がバルト三国を訪問されると聞いた時から、必ず杉原さんの跡を辿られるものと確信していました。 又、筆者にとっても、外国貿易業界の大先輩として尊敬する方の一人です。

両陛下がリトアニアの杉原千畝記念碑訪問

天皇、皇后両陛下は 26 日、リトアニアに入り、第 2 次大戦中にナチス・ドイツから迫害された多くのユダヤ人を救った外交官、故・杉原千畝氏の記念碑に立ち寄った。 同国には杉原氏の記念館や名を冠した通りがある。 遺族は「両陛下のご訪問で、杉原の人道的行為が改めて報われた思い。 本人もきっと喜んでいると思います。」と話している。

杉原氏は 1939 年から 2 年間、リトアニアの領事代理を務めた。 その間、ナチス・ドイツに追われた多くのユダヤ人難民に、外務省の方針に反して日本通過ビザを発給し、約 6,000 人の命を救ったとされる。 こうした功績が次第に評価され、リトアニアは 91 年に日本と国交を回復させた際、ビリニュス市の通りのひとつを「スギハラ通り」と命名。 杉原氏がビザを発給した旧日本領事館も杉原記念館として保存されている。

今回、両陛下が訪問した記念碑は、01 年に母校・早稲田大学の寄贈で、ビリニュス市の河畔に建てられた。 両陛下はアダムクス大統領夫妻とともにリトアニアの外相の説明を受けた後、記念碑に歩み寄り、埋め込まれたビザの写真製版や杉原氏の顔のレリーフにじっと見入っていた。 この前に行われた昼食会でも、大統領は杉原氏が日本とリトアニアの間に「外交業務を超えた特別な懸け橋」を作ったと述べ、「常にリトアニア国民の尊敬を集めている」と評価した。

杉原氏は海外で評価される一方で、日本国内では冷たい扱いを受けていたとされ、00 年に当時の外相が遺族に「ご無礼があった」と謝罪した。 関係者のひとりは「杉原の行為をめぐり様々な声があるのは確か。 だが、(今回の訪問が)何よりも平和の大切さを見直す契機になって欲しい。」と話している。

- 朝日新聞 2007 年 5 月 26 日 -


米大統領、大量虐殺記念館を訪問 目に涙も

ブッシュ米大統領は 11 日、イスラエルで第 2 次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)の記念館「ヤド・バシェム」を訪問した際、アウシュビッツ強制収容所へユダヤ人を運んだ鉄道を爆撃して虐殺を防ぐべきだった、との考えを示した。 AP 通信が伝えた。 同通信はイスラエルのホロコースト研究者の話として、米大統領がこの認識を示したのは初めてと伝えた。

記念館のシャレブ館長によると、大統領は参観中に 2 度、目に涙を浮かべた。 大戦中に米軍が空撮したアウシュビッツ強制収容所の写真の前で、虐殺の防止よりもナチスに対する軍事攻撃を優先した当時の米国の判断の是非について、ライス米国務長官と話し合った。 その際、爆撃で虐殺の犠牲者増加を防げたとの考えを述べた。 ホロコーストの犠牲者は約 600 万人といわれ、アウシュビッツでは百数十万人が殺された。

- 朝日新聞 2008 年 1 月 13 日 -


売れる「わが闘争」漫画版 苦言も「歴史資料」の声も

独裁者アドルフ・ヒトラーの著書「わが闘争」。 この漫画版が日本で発行され、売れている。 いまも出版が禁じられているドイツには批判の声もあるが、出版元は「内容を検証してほしい」と話す。 これまでも知る権利や民族的配慮をめぐって議論が起きたいわくつきの本だが、再び論争の種になりそうだ。

漫画版「わが闘争」は、出版社イースト・プレス(東京都)が昨年 11 月、古典作品を漫画化する「まんがで読破」シリーズの一つとして発行した。 原作を基に構成とセリフを編集者が考え、作画は制作会社に発注。 ヒトラーの生い立ちからナチス結党、「わが闘争」執筆までの経緯と反ユダヤの主張が、190 ページの劇画で描かれる。

編集担当の円尾(まるお)公佑さん (32) は「有名な本だが、読んだ人は少ない。 どんな思想があれほどの悲劇を生んだのか、『悪魔』で片付けられるヒトラーの人間の部分を知る材料になると思った。」と企画の理由を話す。

「人間失格」、「ファウスト」、「資本論」などが並ぶ全 43 作のシリーズの中では異色。 「売れると期待していなかった」が、わずか半年で、シリーズの平均部数 3 万 5 千部を上回る 4 万 5 千部が売れた。 「これまでに出版を批判する声は直接届いていない」という。

海外メディアも注目し、昨年末以来、英 BBC や米 CNN などが報道した。 フィナンシャル・タイムズ・ドイツ版で 2 月に記事を書いた東アジア特派員、マーティン・コリングさんは「漫画化はリスクはあるが、新しい発想。 多くの人が手に取り、批判的に検証することは意義がある。」と一定の評価をする。

ただ、ネット上などでは「出版は無神経」、「ネオナチを喜ばす」、「有害図書扱いはかえって魅力を生む」といった賛否の議論も起きている。 「わが闘争」は現在、ドイツで新刊が手に入ることはない。 著作権者のバイエルン州が、ナチスの犠牲者への配慮から戦後一貫して出版を認めてこなかったからだ。 外国への対応も同様で、00 年にチェコで許諾なく出版された際、州政府は厳重に抗議した。

日本では角川文庫版で 73 年から刊行されている。 角川書店によると、著作権者から許諾を得たことはないが、著作権に関する国際的な取り決めであるベルヌ条約の「刊行後 10 年間翻訳されていなければ自由に翻訳できる(70 年以前の著作物のみ)」という主要国では日本にだけ特例的に認められた規定を根拠に出版したという。 プレス社の漫画版も、角川版を基にした。

バイエルン州財務省は朝日新聞の取材に、「この扇情的著作が再び流布するのは、それが今や象徴的意味すら持たないとしても、ナチズムの犠牲者にとって苦悩を想起させる」と強調。 漫画版について「そもそも、この問題ある内容を批判的に表現するのに、漫画という媒体が適切とは考え難い」と苦言を呈した。

ナチズムをめぐる欧州と日本と意識の隔たりを指摘する声もある。 バイエルン州駐日代表部の尾畑敏夫代表は、仕事で現地に 13 年暮らした。 「ドイツでは 60 年たっても論争になる敏感な問題。 漫画という媒体の位置付けの違いも含め、議論を尽くして出版したのだろうか ・・・。」

一方で出版禁止に疑問を投げる専門家もいる。 全体主義を研究するドレスデン工科大学のクレメンス・フォルンハルツ教授は「自由社会に禁書はあるべきではない。 今、『わが闘争』に人を引きつける魅力はない。 むしろ、社会にとって重要な歴史資料だ。」と話す。

角川書店も 10 年ほど前、ドイツ大使館から「刊行をやめられないか」と求められた。 社内で改めて議論した結果、「批判的に検証できる機会を奪うことはかえって不健全」との結論になったという。 日本では 5 年前、ヒトラーの画家時代を描いた映画の公開にあわせて配給会社が水彩画作品を展示しようとしたところ、海外から取材が殺到し中止したことがある。(石川智也)

- 朝日新聞 2009 年 9 月 6 日 -


独首相「歴史に終止符ない」 戦後 70 年前に呼びかけ

ナチス・ドイツが連合国に降伏してから 8 日で 70 周年になるのを前に、メルケル独首相は 2 日、国民に歴史と向き合うよう呼びかける映像メッセージを政府ホームページに公開した。 メルケル氏は「歴史に終止符はない。 我々ドイツ人は特に、ナチス時代に行われたことを知り、注意深く敏感に対応する責任がある」と訴えている。

メルケル氏は映像メッセージで、ドイツ国内のユダヤ系の施設を警官が警備している現状を「恥だ」とし、「意見を異にする人々が攻撃されるのは間違っている」と指摘。 学校や社会でも歴史の知識を広めていくことの重要性を強調し、戦後ドイツに移り住んだ人々にも「ドイツの過去を共有」するよう求めた。

メルケル氏はまた、自身が 10 日にモスクワを訪れ、ロシアのプーチン大統領と無名戦士の墓に献花すると説明。 ウクライナ危機でロシアと対立していても「第 2 次大戦の多数の犠牲者を追悼することは重要だ」と理解を求めた。 ロシアは 9 日にモスクワで対独戦勝 70 周年の式典を行うが、ウクライナ危機を背景に欧米各国の首脳は欠席を表明。 メルケル氏も 9 日の式典は欠席するが、10 日に無名戦士の墓を訪れることでバランスを取った。(ベルリン = 玉川透)

- 朝日新聞 2015 年 5 月 3 日 -


「シンドラーの工場」保存へ 野ざらし 7 年 … 和解へ動く

スティーブン・スピルバーグ監督の映画「シンドラーのリスト」に描かれたチェコの工場跡が昨年 10 月、政府から歴史文化保護地区に指定された。 実業家オスカー・シンドラー氏に救われたユダヤ人従業員らが第 2 次大戦の終戦を迎えた場所だ。 背景には、戦後故郷を追われたドイツ系の元住民との和解の動きがある。 工場跡の広い敷地には、崩れかけたれんがの建物が点在していた。

「ここに立ってこんなふうに話したんじゃないか。」 昨春創設された「オスカー・シンドラー記念財団」のヤロスラフ・ノバクさん (49) が作業場のあった建物の 1 階で木製の台に登り、ポーズを取った。 ドイツ降伏の日、シンドラー氏が、解放が決まったユダヤ人従業員らを前に演説した様子をまねして見せた。 大戦末期、ナチスはユダヤ人の「最終処分(虐殺)」を急いだ。 ポーランドで金属工場を経営していたシンドラー氏は、ユダヤ人らを自身の故郷スビタビに近いチェコ東部の村ブルニェネツの工場に移し、1,100 人以上を救った。 そのために作った名簿が「シンドラーのリスト」だ。

工場は戦後の共産政権下で国営の繊維工場に。 1989 年の民主化後に民営化されたが、2009 年に倒産し、放置された。 保護地区指定の動きは、16 年春になってのことだ。 (ブルニェネツ = 喜田尚)

- 朝日新聞 2017 年 1 月 4 日 -


inserted by FC2 system