天皇陛下のメッセージ (8)

天皇、皇后両陛下は、今年も旧戦地への慰霊の旅を続けられるようです。 ライフワークとしての強い使命と認識されておられるのでしょう。 どのような日程なのかは知りませんが、ぜひレイテ島まで訪れられ、戦艦「武蔵」と共に眠る英霊にも声を掛けて欲しいと願っています。

〈追記〉 ご自身のお仕事に自ら終止符を打たれようとされるおつもりのようです。 そして、次の天皇の即位をこの目で見たいとの強い願いが現れているように思います。

両陛下、念願の「北のパラオ」訪問 入植者たち気遣う

天皇、皇后両陛下は 17 日、宮城県蔵王町に入り、南太平洋の激戦地・パラオ共和国からの引き揚げ者が開拓した「北原尾(きたはらお)」地区を訪れた。 当時を忘れないよう「北のパラオ」との思いが込められた集落で、入植者の労をねぎらい、体調を気遣った。 北原尾では、終戦翌年の 1946 年 3 月から入植者が雑木だらけの高冷地を切り開き、酪農業を定着させたという。 4 月に戦後 70 年の節目にパラオで慰霊した両陛下は、集落のことを知っていて、入植者の戦中からの苦労をしのび、訪問を強く望んだという。

両陛下は「開魂」と刻まれた石碑の前で、3 人の出迎えを受けた。 14 歳でパラオから帰国した吉田智さん (82) に、天皇陛下は「体を壊されないで」と気遣った。 皇后さまは、5 - 14 歳をパラオで過ごした佐崎美加子さん (83) に「大変な日々を過ごされたんですね」と語りかけた。 パラオ生まれの工藤静雄さん (73) は写真パネルを使い、両陛下に入植後の経緯を説明した。 粗末な小屋の写真を見た天皇陛下が「ガラスがないからずいぶん寒かったでしょう」と尋ねると、工藤さんは「竹で囲って寒さをしのぎました」と答えた。(伊藤和也、桑原紀彦)

- 朝日新聞 2015 年 6 月 17 日 -


両陛下 26 日からフィリピンへ 慰霊の地、体験者の思い

天皇、皇后両陛下は 26 日から、フィリピンに向かう。 戦時中、日米の激戦地として多くの住民が犠牲になった地への慰霊の旅ともなる。 特に旧日本兵によって多くの非戦闘員が殺害されたとされるのがルソン島南部・バタンガス州だ。 現場に居合わせた地元住民、旧日本兵はともに、高齢の今も戦争の記憶を引きずっている。 バタンガス州リパ郊外。 うっそうと生い茂るバナナの木に埋もれるように、その井戸はあった。 「父やいとこが殺されたんです。」 アレックス・マラリットさん (80) は振り返る。

1945 年 2 月の早朝。 何人もの日本兵が自宅に入り込み、父を連れ去っていった。 数週間後、母と逃げていた島から戻り、何が起きたのかを聞いた。 日本兵たちは集落の男性 40 人ほどを次々に銃剣で刺し、井戸に投げ込んだという。 父の遺体と対面することなく、母は亡くなった。 二度と戦争を起こさないため、自分のこととして考えてもらいたい。 マラリットさんは願いを込め、10 年ほど前から当時の様子を絵に描き、地元の博物館で展示している。

かつての日本軍の行いに怒りを忘れることはない。 一方で、身の回りには日本製品があふれているという現実もある。 多くのフィリピン人が抱える、そんな複雑な胸のうちを直接聞いてほしい。 両陛下の訪問に期待を寄せている。

同じ頃、秋田県由利本荘市の三浦新一さん (92) も陸軍歩兵第 17 連隊の一員としてバタンガス州にいた。 「住民を皆殺しにしろ」という上司の命令を受け、仲間と住民を襲った。 旧防衛庁の「戦史叢書(そうしょ)」によると、第 17 連隊の連隊長は 45 年 1 月 25 日、ゲリラの粛清とともに「住民にしてゲリラに協力するものはゲリラとみなし粛清せよ」と命令。 多くの住民が殺害されたとされ、連隊の生還者らがまとめた「歩兵第 17 連隊比島戦史」には、この連隊長らが戦犯裁判にかけられ、死刑となったとある。

三浦さんは「ゲリラに仲間を惨殺された憎しみもあり、やるしかないという気持ちだった」と振り返る。 襲撃を終え撤収しようとした際、散乱する遺体の下から子どもの泣き声が聞こえてきた。 日本に残した娘が脳裏をよぎり、とどめを刺すのは思いとどまった。 「戦争とはいえ、フィリピンの人たちには本当にかわいそうなことをした。」 今でも自責の念にかられる。 現地での遺骨収集に誘われたが、戦時中の自らの行為を思うと、その気になれなかった。 今回、両陛下が慰霊することに「現地住民に与えた苦労、苦痛に対して日本を代表して謝罪に行ってくださる」と受けとめている。(島康彦、伊藤和也)

- 朝日新聞 2016 年 1 月 24 日 -


天皇陛下、生前退位の意向 皇后さま皇太子さまに伝える

天皇陛下が、天皇の位を生前に皇太子さまに譲る「生前退位」の意向を示していることが、宮内庁関係者への取材でわかった。 数年前から繰り返し周囲に話していたという。 数年内の譲位を望んでいるという関係者もいるが、実現には皇室典範の改正などハードルは高く、複数の宮内庁幹部は具体的な手順について「宮内庁として一切検討していない。 天皇陛下のご意向と、実現できるかは別の話だ。」と話している。

天皇陛下は 82 歳。 高齢となった現在も、国事行為や国内外への訪問など公務、宮中祭祀(さいし)にのぞんでいる。 2012 年 2 月には、東京大病院で心臓の冠動脈バイパス手術を受けた。 宮内庁関係者によると、天皇陛下は皇后さまや皇太子さまに意向を伝えているが、生前退位に慎重姿勢を示している皇室関係者もいるという。 皇室制度を定めた「皇室典範」に天皇の退位についての規定はない。 今回の報道を受けて今後、皇室典範の改正や特別法の制定も含めて議論する機運が高まることが予想される。

宮内庁は天皇陛下の公務の見直しを進めているが、天皇陛下は「天皇でいる限りは公務はすべてやりたい」との意向。 宮内庁側は公務軽減を検討しているが、天皇陛下は難色を示し、今年 5 月には、皇居であいさつを受ける「拝謁(はいえつ)」などごく一部だけを取りやめることにとどまった。 天皇陛下は昨年末の記者会見では「年齢というものを感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました」、「一つ一つの行事に注意深く臨むことによって、少しでもそのようなことのないようにしていくつもりです」と話していた。

一方で、公務の負担軽減については、12 年の記者会見で「公的行事の場合、公平の原則を踏まえてしなければならないので、十分に考えてしなくてはいけません。 今のところしばらくはこのままでいきたいと考えています。」と述べていた。 海外では、日本の皇室とも親交の深いオランダの女王やローマ法王が相次いで退位を表明している。 日本でも、昭和天皇まで歴代の天皇のうち、半数近くが生前に皇位を譲っている。 だが、明治時代以降は天皇の譲位はなくなり、江戸時代後期の光格天皇を最後に約 200 年間、譲位は行われていない。

昭和天皇が 87 歳で逝去した 1989 年 1 月、天皇陛下は 55 歳で即位した。 皇太子さまは 56 歳とその年齢をすでに上回っている。 昭和天皇は 1926 年 12 月、25 歳で即位していた。 実現に向けては、次の皇位継承者を示す皇太子がどうなるかも検討課題となる。 現行の皇室典範では、皇太子について「皇嗣(こうし)たる皇子を皇太子という。 皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫を皇太孫という」と定めている。 しかしいまの皇太子ご夫妻に男子がいないため、皇太子さまが次の天皇に即位しても、現行規定では次の皇太子がいないということになる。

天皇陛下の退位を定めるために皇室典範を改正する際は、あわせて秋篠宮さまを皇太弟とすることも検討されることになりそうだ。 生前退位が行われた場合、元号は、現在の「平成」から新たな元号に改められることになる。 1979 年に制定された元号法により「皇位の継承があった場合に限り改める」と定められている。 天皇陛下は皇后さまとともに、東日本大震災や熊本地震の被災地を訪れ、避難所などで被災者と言葉を交わされている。

- 朝日新聞 2016 年 7 月 13 日 -


両陛下、長野「満蒙開拓館」訪問 「伝えることが大切」

私的な旅行で長野県に滞在中の天皇、皇后両陛下は 17 日、同県阿智村にある「満蒙開拓平和記念館」を訪れ、現地での体験を語り継いでいる 80 - 90 代の引き揚げ者らと懇談した。 戦前、中国東北部(旧満州)に 27 万人とされる日本人が開拓団として渡ったが、敗戦後に多くが捕虜となり、収容所で飢えや疫病などで犠牲になった。 長野県は全国最多の約 3 万 3 千人を送り出したという。

終戦後に苦労しながら帰国したという男性に、皇后さまは「よくお苦しみに耐えてくださいましたね」と声をかけた。 天皇陛下は「こういう歴史があったことを、経験がない人たちに伝えることが大切だと思います。 そういうことを経て今の日本が作られたわけですから。」と語りかけた。 その後、同県飯田市の「りんご並木」を訪れ、地元の中学生が収穫する様子を見守った。 天皇陛下は中学生たちに「これからの未来を有意義に過ごされますように」と話しかけていた。

両陛下はかねて旧満州などからの引き揚げ者に心を寄せ、開拓団が戦後に入植した長野・軽井沢の大日向地区、栃木・千振地区を訪れたことがある。(島康彦)

- 朝日新聞 2016 年 11 月 17 日 -


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