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G. ビルマでの戦い (往復メール集 - 6)

6-25-07

TK 様

そうでしたね! 既にメークテーラが急襲されていたのを考えると、間一髪の原隊復帰と言えますね。

唯、英印軍から見れば、主力をメークテーラからラングーンに直進させる為、北面に日本軍を引き付ける為の陽動作戦だったのでしょうし、出来るだけ消耗を抑えた、散発的な攻撃だったとも言えますね! 勿論、今だからこそ言えるのですけれど ・・・。

負傷前と、次の第 5 話では、戦争に対する見方にも変化があったようですが、物理的にも、実際の前線の様相がガラリと変わっているのがよく分かります。 今更言ってもしようがありませんが、何とも「情報の薄さ」、それに「情報の周知徹底がなされていない」ことは、やはり、反対の意味で驚かされてしまいます。 (RH)


6-25-07

RH 様

KK 少尉もキャウセからシヤン高原に入り、カローを経由して南下、雨季の山中を僅かな食を求め、それに重い重機関銃を搬送、シッタン河口のザロッキーに集結の為、道無き道を切り開いて行ったことでしよう。 この行軍では多数の自爆者が輩出、病気で行き倒れも多く、ここでもインパール同様の白骨街道が出現したと聞きました。 (TK)


6-25-07

TK 様

同じ長岡京にお住まいの SK さまのお便りです。 (RH)

* * * * * *

KK 様 KN 様 RH 様

「私のビルマ戦記」寄稿有難うございます。 「田畑敏雄さんの戦場スケッチ」も見せて貰いましたが、とても臨場感があって眼を見張りながら見ました。

KK 様の将校斥候 ・・、大変なご苦労 ・・。 私は飛行兵でしたが、訓練で歩兵同様やりました。 「何時」、「何処で」、「何が」、「何ほど」、「何しとった」の五つの項目を覚えさせられていました。 机上の訓練ですね ・・。 それを地で往く偵察、ご苦労様でしたとしかお礼の言いようがありません。

その当時は、関東軍ではソ連に対しての抗戦想定訓練の日々でした。 沖縄より派遣の将校等、4 月 - 6 月、私は飛行隊で戦いません、と新京の参謀達は上手く逃げた実例があります。 KK 様は最後まで目的を達成されて帰還。

あんな戦争に、と馬鹿にする者もいるが、逃げるに逃げられず、敵の前、捕虜の罪は無くても敵前逃亡は厳罰。 そんな事も考える余裕もない日々でしたね ・・。 戦争往って来い、さすれば戦争って口には表わせないくらい悲惨、残酷、理屈抜きの惨状がわかると絶えず言います ・・。 KK 様の記事とか、「田畑敏雄さんの戦場スケッチ」を多くの人びとに見て欲しいです。 有難うございました。


6-26-07

RH 様

「安」部隊はメークテーラでマンダレー街道を分断されて南進しての撤退は不能となり、キャウセからシヤン高原に入り南下してモチ経由してパブンに到着に約 1 ヵ月半の苦しい行軍だったと聞きました。

パプンではマンダレー街道以西の各陣地に取り残され孤立した「策」集団約 35,000 名救出のためシッタン西岸に布陣、既に南部シッタンに到着布陣していた菊兵団と協力して「策」集団の救出に尽くされましたが、終戦までに約半数の 16,000 名が救出されたものの、残りの将兵は消息不明に、「安」兵団も救出作戦中に敵機の銃爆撃で菊池連隊長が戦死、終戦まで後 1 ヶ月と云う不運さでした。 (TK)


6-27-07

TK 様

とうとう終戦を迎えました。 それにしても、ほぼ大勢が決している中でも反撃を試みる、それが軍人の習いではあるのでしょうが、唯々、頭が下がります。 KK さまの撤退の、約 1 ヶ月半前、我が父は 3 名で、マンダレー・ラングーン街道をメークテーラから徒歩で一気に南下していますが、もう既に、そこは英印軍の完全な征圧下に変わっていたことになるわけですね!

又、KK 様からも直ぐにご返事を戴きました。 (RH)

* * * * * *

RH さん、SK さん、KN さん、何時も大変お世話様になっています。 KK です。

皆様。 「ビルマ戦記」を長々と連載させていただき、ご迷惑をお掛けします。 然し、それにより RH さんから、関連の「田畑敏雄さんのビルマ戦場スケッチ」を公開され、充分、当時のビルマ戦線を彷彿するものでした。 祭兵団が戦ったインパール作戦はより過酷な状況の下で、あれだけのスケッチが画かれたことに感服します。

また、私の戦記と、TK さんのサイド・ストーリーを併記してのメール興味があります。 第一線では自分の目先しか見えませんし、考えも及びません。


6-28-07

RH 様

KK 小隊長の奮戦振りが、まるでテレビ映画を見ているように写りました。 情景描写がうまく、読んでいて知らず知らずに引き込まれていき 63 年前の戦場にいるような錯覚に襲われました。 とうとう最後の復員まで来ましたね ・・・。

今年も 7 月の 15 日に年に一度の戦没ビルマ将兵の慰霊法要が高野山、成福院で各隊の有志、遺家族の方たちが集って開催されます。 馳せ参ずる戦友たちも年々年老いてきましたが、遺族の子弟たちが立派に成人されて行事の要を引き継いでくださるので助かります。 (TK)


6-29-07

RH 様

KK 少尉はビルマ戦線の「安」 128 連隊に着任し、一年で自らも重傷を負うなど、色々命がけの体験をして終戦を迎え、2 年間の抑留生活の後、無事復員されました。 復員船に乗船し、祖国に故郷に帰れる感激は 60 数年たった今でもはっきりと思い出されます。

田端様の戦場スケッチ、復員船上で兵士達が祖国の山や島影を眼にした時の情景は兵士も部隊も復員船も違っていても全く同じですね。 (TK)


9-24-07

TK 様

ミャンマー(ビルマ)も、1988 年以来、久しぶりに、僧侶を含めた民主化運動で盛り上がりを見せているようですが、一連のビルマ関連の報道の中で、先の戦争回顧の記事も見つかりました。 (「グーグル、ニュース検索」を使いました。 RH)

☆ 戦争を二度としてはならぬ 永平寺の小林さん(敦賀歩兵第百十九連隊)、自分史で悲惨さ後世に

= 中日新聞、福井 - 9/1/07

〈注〉 ご紹介しました KK さんのお話しと重なるところが出てくるのではないでしょうか。

☆ 短歌に込めた戦争への思い 半田の小栗さんが体験つづる

= 中日新聞、愛知 - 9/16/07

☆ ビルマ戦線経験の小田敦巳さん(岡山) 19 日から戦没者慰霊展 平和の大切さ伝えたい

= 山陽新聞 - 9/16/07

http://www.sanyo.oni.co.jp/sanyonews/2007/09/16/2007091610250584007.html (既に削除されています)

〈注〉 これは、先日、ご案内したイベントの地元紙の報道です。


9-25-07

RH 様

敦賀 119 連隊(安 10020 部隊は)郷土福井の部隊で、福井出身の私にもなじみの深い懐かしい部隊です。 只、この連隊の人達には現地で出会ったことはありませんでした。 深草 128 連隊(安 10021 部隊は)京都の部隊で殆んど全員京都出身の兵ばかりです。 小安様も気質の全く異なる部隊に配属となりご苦労が多かったのではと思います。

福井の小林さんの貴重な体験談はきっと若い世代に読み継がれ語り継がれていくことと思います。 (TK)


9-25-07

TK 様

永平寺の小林軍治さんに関する中日新聞の記事をご案内しましたが、KK 様から、下記のようなお話しが戴けましたので、お知らせ致します。 (RH)

* * * * * *

KK です。

RH さんから元歩兵 119 連隊小林軍治さんのビルマ戦記の自分史の中日新聞に掲載のメールがありましたので、それに関連したことを少し述べさせていただきます。

皆様ご存知のように京都第 53 師団(安兵団)は歩兵連隊は 3 個連隊の編成で、敦賀の 119 連隊、伏見の 128 連隊、津の 151 連隊でした。

従いまして、北ビルマ等で同じ時期同じような戦闘をしたこともあります。 然し、戦闘は同じ連隊でも夫々の所属によって違った戦い方をしています。 従いまして同じ師団所属でも状況は似ていても戦い方は夫々違っていると思います。

小林さんは 1943 年(昭和 18 年) 12 月入隊ですから、初年兵教育第 1 期 3 ケ月を受け、直ちに内地出発、1944 年(昭和 19 年) 9 月にビルマの第一線に着いたと思います。

私の戦記にも書きましたが、内地から眞ッさらな身体でビルマに入国し悪疫瘴癘の地の洗礼を受ければ、それだけで大抵の人は相当まいってしまいます。

先に死んだ人の遺骨を生き残った者が持ち帰るとの話があったと書かれていますが、遺骨を持った者も斃れ、約束が果たせなかったこと、それが事実です。

戦場とはそういう惨いところです。 私の機関銃中隊にも同じ時期初年兵を 6 - 7 人補充されましたが、不幸にも一人も内地帰還は出来ませんでした。 私の責任と今でも慙愧に耐えません。

戦争で亡くなられた方々には申し訳無いことですが、今つくづく考えてみると、何の為に遠くビルマまで行き、意味の無い戦争をし、多くの犠牲者を出したのだろう。

当時はお国のため、天皇陛下のためと教育を受けていたから何とも思わず、当たり前のこことやって来たのであるが。 為政者は此処のところをよくよく考えて、国の施策を実行していただきたい。


10-8-07

TK 様

戦中タイに渡った SL 90 両の内、日本に戻ったのはわずか 2 両、その中の 1 両が、修理、改装を終えて 4 年ぶりに「大井川鉄道」に復帰したそうです。 今朝の asahi.com に掲載されておりました。 (RH)


10-8-07

RH 様

スリル満点の泰緬鉄道で、往復便で活躍してくれた機関車が大手術の後、復帰したとか、多くの兵士が無蓋車に詰め込まれ往復、本当にお世話になりました。 南部地区廻りで泰に撤退した我々には命の恩人、あの大木橋をギシギシと不気味な音をきしませて渡った事が昨日のように思い出されます。

海を渡った 60 輌の中、帰ったのは 2 輌とか、私達も 80 歳を過ぎたけれど彼達も随分年をとりましたね。 心臓部といわれる機関部を取り替えて復帰、活躍とか、折があったらお目にかかり、お礼が言いたい思いです。 写真有難うございました。 (TK)


10-20-07

TK 様

本日付 "asahi.com" 関西版に、「ビルマで戦死した日本兵の手紙、64 年ぶりに届く」という記事が掲載されていました。 戦地ビルマから 64 年ぶりに届いた絵葉書ですが、どう見ても、絵の風景は満州のように思えます。 きっと、満州からビルマへ転戦された方だったのでしょう。 (RH)


10-20-07

RH 様

本日はまた 64 年ぶりの軍事郵便有難う御座います。 私は昭和 19 年 8 月にメークテーラに到着、無事到着は書けぬのでハガキに差し障りのない事を書き出しました。 その後 2 回ほど便があるので書くように云われて出しましたが、合計 3 通程、家には 1 通も届いていませんでした。 恐らく、水没の運命だったのでしよう。

昭和 18 年には関東軍は次々と南方軍に転出、ビルマにも新師団が編成され、昭和 19 年 3 月インパール作戦が開始されましたが戦況不利となり、同年 7 月、総退却となり、イラワジ河の線まで後退、防衛となりました。(イラワジ河決戦)

私はその作戦中にメークテーラ飛行場に到着した訳です。 1 期先輩は昭和 18 年卒業、ビルマに赴任した軍通・師団通・戦車通信要員はインパール作戦に参加、全員戦死、死因は疫病や餓死だったと云われています。 (TK)


11-5-07

TK 様

下記のサイトをご紹介します。

五期主計雲南始末記 (削除されています)

述者は、ご健在で何よりです。 (RH)


11-5-07

RH 様

竜兵団の主計将校の奮戦機有難うございました。 北九州の兄弟師団「竜」と「龍」はビルマでは強くて「菊」が相手と分かれば敵も一目置くと言われていたと聞きます。

さすが連隊の主計さん撤退しながらの奮戦、中々やりますね。 戦闘行動中にも「ウフッ」と笑わす所があり当時を偲びながら楽しく拝読いたしました。

私達も「断」作戦に協力、「ラシオ」西南方の山中の「スムサイ」飛行場に 11 月 3 日までの約 1 ヶ月間、展開した事がありましたが、只の一度も電波の発信も無く終わりました。

最終日の夕刻 5 時頃飛来した双軽機(軽爆撃機)がイギリスの「ボーファイター」と間違えられ警備隊の地上からの一斉射撃で撃墜と云う哀れな戦果となり搭乗員 4 名戦死しました。 未だに 11 月 3 日の明治節(文化の日)が来ると滑走路の端で炎上の光景が眼に浮かびます。

戦没搭乗員 4 柱の住所氏名階級は戦後高野山、戦友会で判明しましたが、ご遺族には名誉の戦死とお伝えしてあるので、誤射撃墜は伏せてあります。

昭和 19 年の 10 月頃ともなると「レイテ島」あたりが騒がしくなり、ビルマの航空機も特攻用に、また本土防衛隊用に引き上げられ、「マレー半島」、「タイ」、「仏印」附近に隠れ待機、ビルマの飛行場には全く姿を見せなり文字通りの虎の子となりました。 (TK)


12-6-07

RH 様

戦争を語り継ぐ会、東京地区の皆様お元気でご出席なされた由、何よりと存じます。 皆様のご様子が眼に浮かぶ様です。

京都師団で活躍ご苦労の末負傷して野戦病院を転々とされた後、不自由の身で原隊復帰、終戦を迎えられた KK 様のご活躍は何度読み返しても本当に頭が下がります。

張り切りボーイの若鷲 TS 様もお元気で参加された由、さぞ有意義で実り有る会合で皆様もご満足な一日を送られたことと思います。 (TK)


12-8-07

TK 様

「戦争を語り継ぐ」のグループには、次のようなメールが入っておりました。 この方も、「航空無線」のご出身です。

* * * * * *

TI 79 歳です。 よろしく。 FW さんからこの ML を聞き入会しました。

私は、父の反対を押し切って 1944 年、15 歳で志願して特別幹部候補生として水戸の陸軍航空通信学校に入隊しました。

初めての戦闘経験は 16 歳の時、45 年 2 月 16 日、17 日。

常陸教導飛行師団水戸東飛行場で鹿島灘沖のアメリカ航空母艦から飛び立った艦載機の攻撃を受け、400 機の飛行機が壊滅、180 名の兵士が戦死。 この時、志願して 1 年もたたない 16 歳から 19 歳の同期生を失いました。

45 年 4 月旧満州の第 2 航空軍第 22 対空無線隊(本隊長春)に配属、ソ連の侵攻 8 月 9 日には、公主嶺飛行場に派遣され戦闘配置につく。 8 月 17 日停戦命令傍受。

中国八路軍ゲリラの決起、満州国軍の反乱、中国人の襲撃等混乱の中、17 歳の同期生は、「生きて虜囚の辱めを受けず(戦陣訓)」捕虜になるのは嫌だ、歩いて日本に帰るのだと隊を離れ、未だに消息不明。

45 年 9 月 16 日、17 歳の誕生日にアムール川を渡りソ連シベリアに抑留。 帰国復員したのは 47 年 12 月 19 歳の時。

東京の家は空襲であとかたもなく、父もすでに亡く、2 歳上の兄は回天特別攻撃隊白龍隊員として、沖縄へ出撃途中、米潜水の雷撃で 18 歳で戦死していました。

私の生涯の仕事。

少年兵の無念を語り続けること。 少年兵の調査研究。 兄の戦没状況の探索。

不戦兵士・市民の会・戦場体験放映保存の会・わだつみ会・平和を願い戦争に反対する戦没者遺族の会・等の会員。 よろしくお願いします。

* * * * * *

なお同氏の生の声は、去る 9 月 21 日東京・日比谷公会堂で開かれました「9.21 あの戦場体験を語り継ぐ集い」で司会された折に収録されており、非常に元気なお声が下記で聞けます。

http://202.90.10.24/janeye/shiminkisha/0710254538/01/0710254538_a.html (削除されています)


12-9-07

RH 様

「戦争を語り継ぐ会」の TI 様の体験記を読み、当時の私達とダブリ懐かしく拝見。 又、彼のお元気な声を聞くことも出来有難うございました。 特に彼の満州での配属先が「22 対空無線隊」で、私と同じ任務についていたことを知り驚きました。

対空無線隊とは 1944 年 4 月に新設された部隊で、私は「32 対空無線隊」に配属されました。 ビルマには 31 が南部ビルマ、32 が北部ビルマ飛行場に分けられ日夜勤務についていました。 学校は違っても同じ少年兵で同じ任務についていた猪熊様と連絡を取ることが出来ればうれしいです。 よろしくお願いします。


12-29-07

TK 様

12 月 2 日に開催しました「戦争を語り継ごう」の東京ミーティングの写真集を公開しましたので、ご案内します。 場所は、本郷の「わだつみ会館」と、近くのホテルの宴会場です。

2007 年オフ会

ポートレート編 20 枚、スナップショット編 24 枚の、計 44 枚です。

ポートレート編の 2 人目が KK 様、5 人目がバンドンで主計をされていた SO 様、そして 8 人目が「隼」の TS 様です。

決して大きな集まりではありませんが、ご覧のとおり、老いも若きも隔てなく、真剣かつ和やかな集いであることがお分かり戴けるかと思います。 (RH)


12-30-07

RH 様

「戦争を語り継ぐ会」に参集された皆様のお元気な写真を有難うございます。 KK 様、TS 様はじめ皆様のお元気なご様子に心から声援を送ります。

我が戦友会も同期の会も相次ぐ物故者が多く淋しく悲しいこの頃です。 数少なくなってきた私達です。 それだけに次世代への引継ぎをしっかりしなければと思います。 (TK)

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