=== 原発への対応と将来の展望 3 (p) ===

「ようやく家で夕食が食べられる」 福島・葛尾村で準備宿泊始まる

東京電力福島第一原発事故で帰還困難区域に指定されている福島県葛尾(かつらお)村の一部地域で 30 日、準備宿泊が始まった。 来春に予定する避難指示の解除に向けた取り組みで、住民は夜も自宅に泊まることができるようになった。 7 市町村に残る同区域内では初めて。 準備宿泊の対象は、村の東側に位置する野行(のゆき)地区の約 95 ヘクタール。 11 月 1 日現在で 30 世帯 83 人が住民登録している。 避難指示の解除に向けて、政府が国費を投じて家屋の解体や住宅周辺の除染に取り組む「特定復興再生拠点」にあたる。

29 日までに準備宿泊の申請をしたのは 1 世帯。内藤一男さん (64) と光子さん (63) 夫婦で、2010 年 12 月に自宅を新築したが、半年たたずに長期避難を余儀なくされた。 以来、避難先の東京から約 2 カ月に 1 回、車で片道 5 時間かけて通い、家の掃除などをしながら、帰宅するための準備を続けてきた。 10 年 8 カ月ぶりに我が家に泊まる一男さんは「10 年間、泊まることを日々、夢見てきた。 ようやく家で夕飯が食べられます。」と涙ぐんだ。 光子さんも「こういう日が迎えられてうれしい。 両親が苦労して開拓した土地なので、守っていきたい。」 避難指示が解除されれば、2 人でこの地で暮らす予定という。

村は、拠点を足がかりに帰還困難区域の復興に取り組む考えで、拠点内に約 80 人の居住をめざす。 ただ、かつて野行地区に 40 軒ほどあった住宅はこの 10 年で解体が進み、残るのは新築中の 1 軒を合わせて計 4 軒。 放射線量が高い地域はいまも残っており、帰還をためらう住民も多い。 野行地区の行政区長の大槻勇吉さん (72) もすでに自宅を解体し、「戻る考えはない」と言う。 「やっぱり放射線量なんだよ。 山の中は除染していないから、何とかしてもらわないと不安だ。」 ただ、望郷の思いも募る。 村が基金 3 千万円を使って区域内に建てた宿泊施設に、一晩だけでも泊まり、旧知の仲間と酒を酌み交わしたいという。

葛尾村に続き、今後は他の帰還困難区域でも住民の帰還が本格化する。 第一原発が立地する大熊町では 3 日から、双葉町では来年 1 月にも準備宿泊が始まる予定。 これに伴い、各自治体ともコミュニティーの再生に軸足を移すことになるが、かつての住民がどれだけ戻るかは不透明だ。 (見崎浩一、笠井哲也、asahi = 11-30-21)


小泉・鳩山・菅の 3 元首相がそろい踏み 脱原発を訴える

小泉純一郎元首相は、東日本大震災から 10 年を迎えた 11 日、東京都内で講演した。 東京電力福島第一原発事故について「人災」と述べ、原発は「安全じゃなかった。 コストが先々まで莫大にかかる。」として、持論の「原発ゼロ」を改めて訴えた。 小泉氏は「原発ゼロ・自然エネルギー推進連盟」が開催したイベント「原発ゼロ・自然エネルギー 100 世界会議」に登壇。 事故後、原発について学び、それまで原発が「安全、コストが安い、クリーンエネルギー」とされていたことが「全部うそだった」と感じたと述べた。 「過ちて改めざる、これを過ちという」との言葉を胸に原発ゼロを訴えていると近況を語った。

小泉氏は、原発事故後、国内の全原発が停止していた期間があったことに触れ「原発ゼロは無鉄砲でも非現実的でもない」と強調。 「野党のみなさんが原発ゼロにしようと言い出して、自民党は原発必要だ、とやれるかどうか。 選挙民は原発をやらせようという方に投票するか、疑問に思っている。」と述べた。 小泉氏の講演後には、鳩山由紀夫、菅直人の 2 人の元首相もあいさつ。 鳩山氏が「久しぶりに小泉節を聞いた。 小泉(元)総理ももう一肌脱いでいただいて、政治の世界に戻っていただいて、脱原発で政党をつくって党首になっていただければ、参上したい。」と語ると、小泉氏が笑う場面もあった。

菅氏は「この 10 年間で原発が発生した電力は、全体の電力のたった 3%。 原発は建設コストが 3 倍になった。 使用済み燃料の処理はできない。」と述べ、「将棋でいえば完全に投了の場面なのに、投了しないと言って原子力ムラが頑張っているだけだ」と指摘した。 会議では、3 氏に加え、細川護熙、村山富市の 2 人の元首相もそれぞれ「脱原発」、「原発ゼロ」を求める声明を発表した。 (吉川真布、asahi = 3-11-21)


都会はまひしなかった 光輝く東京、この 10 年何だった

東日本大震災と東京電力福島第一原発の事故から、3 月で 10 年となる。 日本中を震撼させた大事故は、エネルギーの問題点をあぶり出し、さまざまな改革のきっかけになった。 電気を使う私たちに、原子力とどう向き合うのかという重い問いも投げかけた。 この 10 年で何が変わり、何が変わらなかったのか。

コロナ禍で自粛ムードが漂うクリスマスの夜も、東京・新宿のビル街はいつも通りまばゆい光を放っていた。 2011 年の原発事故直後、避難指示が出された福島県富岡町から、妻、3 人の子ども、母の家族 6 人で東京に逃れてきた市村高志さん (50) は、記者とともに久しぶりにこの場所に立った。 夜景を眺めながら、事故が起きた日の車中泊で見上げた星空の美しさをふと思い出した。 「本当にきれいだった。 あんな状況でも一瞬、心が癒やされたんです。」

いま眼前に広がる人工のきらめきは、エネルギーを浪費する都会の象徴と映る。 「この先も自分は、東京に住み続けるのかわからない。」 避難して 1 年が過ぎた 12 年初夏、市村さんは会合で同じ富岡出身の友人と新宿の高層ビルにいた。 地上 30 階建て。 輝く夜景を見て、友人が隣でつぶやいた。 「結局、原発なくてもいいんじゃん。」 その一言に、慣れない東京暮らしに、その日を乗り切ることで精いっぱいだった市村さんははっとさせられたという。

事故前の東電の説明は違っていた。 「福島にある原発から電気を送らないと、都会はまひする。私たちが日本の経済を支えているんです。」 富岡町に住んでいた頃、何度もそう聞かされた。 市村さんは原発と関係のない自営業者だったが、電力供給地の「責任」を与えられ、誇りにもつながっていたという。 ところが事故後、やっとの思いで東京まで避難すると、電車が動いていた。 計画停電や節電要請で多少の不便はあったものの、世間はほぼ日常生活が送れていた。 「本当かよ?」 それまで信じ込まされてきたことは何だったのか。 だまされたという「怒り」に近い感情は、いまもなお消えない。

10 年前の事故は日本のエネルギーの弱点を露呈させた。 首都圏は電力不足に陥り、計画停電を実施。原発の安全性に疑念が強まり、12 年には一時、国内の全基が停止に追い込まれた。 電力需要が多い夏場は火力の炊き増しと節電で何とか乗り切った。 当時の民主党政権は、東電を実質国有化して事故の対応に当たらせるとともに、原発依存からの脱却をはかる改革に次々着手した。 原子力規制委員会の新設と原発稼働に関する基準の厳格化、再生可能エネルギーの発電を支援する固定価格買い取り制度 (FIT)、電力大手の「地域独占」に終止符を打つ電力小売り全面自由化、将来の「原発ゼロ」 …。 これらの改革により、電力の供給構造も大きく変わった。

国内の発電電力量に占める割合を見ると、10 年度に約 25% あった原発は大きく落ち込み、19 年度は約 6% にとどまった。 これを補う形で、化石燃料を使う火力は約 65% から約 76% に増加。 FIT の追い風を受けた再エネも 10% 弱から 18% に倍増した。 ただ、これまでの取り組みを「不十分」と見る業界関係者は少なくない。 「原発事故はエネルギー政策を大きく転換する好機だったのに、生かし切れなかった 10 年だった。」 再エネの電気を販売する「みんな電力」の三宅成也専務はこう指摘する。

三宅さんは、関西電力の原子力部門で 13 年間働いた元技術者。 飛躍的な技術革新がなくても再エネの割合は 40% ほどまで高められると言う。 ただ、原子力や石炭火力の電気を優先して送電網に流すルールなど、事故後も温存された仕組みが障害になっており、「それを再エネ優先に変えるだけで景色はがらりと変わる」と訴える。

安いかどうかだけの電力会社選び

電気はいつも当たり前に使えるもの - -。 そんな「常識」を事故は揺さぶった。 福井市の主婦、古石暁子さん (49) は事故をきっかけに、自身の節電生活のことを知人からよく聞かれるようになった。 以前から、ワット数の低い家電を選ぶ、暖房時は室内を狭く区切る、といった工夫を重ね、電気代は 4 人家族で月 2 千円ほど。 その経験を話すと評判を呼び、「自分もやってみた」、「電気代が半分になった」という人が周りに続出した。 自身が代表を務める子育て団体で節電を話し合う活動も始め、テレビなどで取り上げられた。

ただ、盛り上がりは続かなかった。 5 年も経つと、講演の依頼などはほぼなくなった。 古石さんは「この10年で節電意識が大きく高まったとまでは思えない」という。それでも「社会にプラスの変化はあった」と信じ、いまも節電を続けている。 事故の後、電力消費は減った。 19 年度の発電電力量は 10 年度より1割少ない。 節電がある程度定着したようにもみえるが、それだけとは言い切れないようだ。

「人口減や、製造業を中心とした産業構造の変化、省エネ機器の普及、太陽光など分散型電源の増加など複合的な要因だ。 消費者はあまり変わっていないのではないか。」 東電出身でソフトバンクに移り、いまは新電力「SB パワー」社長の中野明彦さんはこう見る。 古石さんのように熱心に節電したり、自宅の電気を再エネに切り替えたりする人は多くない 16 年に家庭向け電力小売りが自由化され、個人も契約する電力会社を選べるようになったが、「大手から新電力に切り替える動機はほとんどが料金が安くなるかどうか」というのが中野さんの実感だ。

放射線の危険性を知らしめた事故は原発世論にもインパクトを与えた。 原子力のイメージを尋ねた日本原子力文化財団の世論調査では、「不安」が 10 年の 45% から 19 年に約 55% に、「信頼できない」が約 10% から約 24% にそれぞれ増えた。 一方で「必要」、「役に立つ」はともに 24% 前後と 10 ポイントほど下げた。 ただこの数年は否定的なイメージが徐々に減る傾向にあり、時とともに意識の揺り戻しも一部みられる。 原子力の利用について 19 年調査では、「徐々に廃止」、「即時廃止」の回答が計 6 割にのぼった。 「維持」、「増加」は計 1 割にすぎず、原発利用そのものへの不信は強いままだ。 ただ、事故後もこの問題は国政選挙の主な争点にはならず、世論は政策を変える力につながっていない。

「低減しつつも活用」

原発事故の惨禍を経験しても、変わりきれない日本のエネルギー政策。 この図式を一変させそうな動きが最近あった。 「積極的に温暖化対策を行うことが、産業構造や経済社会の変革をもたらし、大きな成長につながる。」 菅義偉首相が昨年 10 月、50 年までに温室効果ガス排出の実質ゼロをめざすと宣言した。 世界の脱炭素化の潮流にあらがえず、再エネの利用目標の引き上げや炭素税・排出量取引の導入検討、技術革新を後押しする 2 兆円の基金創設など、政策を総動員する姿勢に転じた。

ただその中でも、原発の将来は定まらないままだ。 発電中に温室効果ガスを出さない原発について、昨年末にまとまった新戦略は、「可能な限り依存度を低減しつつも、引き続き最大限活用していく」とうたう。 原発維持の旗を振る経済産業省の意向で、矛盾にも見える文言が残された。 この 10 年間、原発政策は迷走とその場しのぎを重ねた。 12 年に民主党政権が「30 年代の原発ゼロ」を掲げたが、直後に返り咲いた自公政権が原発活用にかじを戻した。 だが、安全対策や地元同意の遅れから再稼働は思惑通り進まず、建設中を除いた 33 基で動いたのは 9 基にとどまる。

民主党政権の事務方として「原発ゼロ」の立案に携わった元経産官僚で、今はグリーン化学品のベンチャー企業を率いる伊原智人さんは、この曲折をどう見るか。 「自公政権で原発に回帰した結果、再エネを進めたいのかが不透明になった。 ただ、遠回りしたとはいえ、『温室効果ガス実質ゼロ』が打ち出され、やっとあるべき姿に近づく。 重要なのは、再エネに全力で取り組むのか、原発依存を続けるのか。 国民の声を踏まえて正面から議論すべきです。」 (大津智義、伊藤弘毅、asahi = 1-10-21)

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