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派手さもゆかし浪花の婚礼事情

黒地に染めと刺繍を施した豪華な花嫁衣装。 クジャクか鳳凰か、きらびやかな鳥が羽を広げて慶事を言祝(ことほ)ぐ。 一言でいうと「はでやか」。 まさに谷崎潤一郎の小説「細雪」の世界がそこにあった。

大阪で開いている文化講座「上方生活文化堂」での一コマ。 昭和 14 年、南船場の玩具商・廣野家の長女、カツさんが嫁いだときの衣装が紹介され、思い出したのはこんなシーンだ。

船場の旧家の 4 姉妹のうち、末娘の妙子が、舞の会で着るために本家の長姉の婚礼衣装を借りてくる。 「父が全盛時代に染めさせたこの一と揃いは、三人の画家に下絵を画かせた日本三景の三枚襲(かさ)ねで、一番上は黒地に厳島、二枚目は紅地に …(「細雪」)」

商家の豪華な嫁入り支度が目に浮かぶと同時に、当時の大阪の華やかな生活文化が伝わってくる。

さて、冒頭の花嫁衣装について「祖母は 5 人姉妹の長女で、婚礼でこの着物を着ました。 写真も残っています。」と娘の佐野恵美子さんが説明してくれた。 カツさんは同じ船場の商家に嫁ぎ、道具は大切に残されて幸い戦災も逃れている。 詳細な目録があり、着物はもちろん帯にかんざし、帯留め、タンスや文机までそろえたというからすごい。

「江戸時代以来、船場の豪商を中心に武家の儀礼にならった華やかな婚礼が行われてきました。 娘が一生不自由しないよう立派な嫁入り道具をととのえ目録を添えた。 財産分与の意味合いもあったでしょう。」というのは、大阪くらしの今昔館の深田智恵子学芸員だ。

婚家では専用の蔵を造り道具を収めた。 花嫁用の蔵を建てる財力がなければ船場から嫁を迎える資格がない - ともいわれたという。 「もちろん、こうした道具を作ることは職人を育て技術を継承することでもありました。 残念ながら、戦前まではこうした伝統が受け継がれてきましたが、今ではほとんど見られなくなりました。(深田さん)」

そこで、さらにさかのぼって、まだ江戸時代の空気を色濃く残す明治 45 年の婚礼についても聞いた。 地主だった井上家の膨大な記録「井上平兵衛家文書」が大阪市に残っている。 おおむね婚礼儀礼としてはこんな流れになるそうだ。

結婚が決まると仲人を立て、

  1. 結納
  2. 花嫁道具の荷物送りの行列
  3. 届いた荷物を披露する「荷飾り(荷物を飾って近所などに披露する)」
  4. 祝言
  5. 披露宴

となる。

結婚式と披露宴は自宅で、仲人や親族ら合計 20 人ほどで行われた。 開始時刻は夜の午後 9 時。 現代のように簡略化しない「三三九度」の杯を交わし、江戸時代以来の伝統だそうだが新郎新婦と参列者全員で「雑煮」を食べて祝った。

実はこのときの井上家の婚礼は婿入り婚で、大阪の商家ではこの形が推奨されていたそうだ。 婿が婚家に出した誓約書も残り、「御家法通リ堅ク相守リ …」とある。 娘にまじめで優秀な婿を取るというのは、いかにも合理的な大阪の商家らしい考え方だろう。

さらにおもしろいのは、諸費用を記録した「諸経費控帳」だった。 衣装や装飾品はもちろんのこと、婿の衣類や祝宴費用も細かく記され、手伝いや親しい人への祝儀に百貨店の商品券などを配ったことがわかる。

ふと、なつかしい項目に目がとまった。 「タメ 呉服券(大丸) 5 円」とある。 今でも時折耳にするが「おため」という慣習だ。 関西では、祝儀に対して 10 分の 1 程度の金額か物品で返礼する。

子供のころ、手土産の菓子を携えてきた客に、母が「おもたせで失礼ですが」と茶に添えてその菓子を出し、帰り際には「おため」と称してハンカチなどのちょっとした品を渡したものだった。 ささやかでゆかしい記憶である。 (山上直子)

(産経新聞 = 6-19-18)

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