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服がひもとく近代中国 たおやかな旗袍に秘められた物語を追いかけて

チャイナドレス(旗袍 = チーパオ)のイメージは、ほとんどの人にとって「派手な色柄と身体に沿ったシルエット、太ももまで割れたスリット」というセクシーなものだろう。

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女性解放の象徴

中国の民族衣装の代表と思われがちな旗袍だが、その歴史は思いのほか浅い。 1920 年代、従来の非活動的なツーピースの服装を抑圧と感じた進歩的な女性たちが、満州族が着るワンピーススタイルの「旗袍(「旗」は満州族を、「袍」は長着を指す)」に注目したことから始まる。

新たな「旗袍」はいくつかの流行を経るが、女性解放の象徴として登場しただけに、体形や年齢を問わず着やすいと、早くも 30 年代には全国に広まった。 しかし 49 年の中華人民共和国成立後の中国では徐々に衰退。 66 年からの文化大革命では悪しき旧習と見なされ、一旦断絶した。

現在のようにスリットが高く、体に沿ったラインの「チャイナドレス」は、60 年代に香港で流行したスタイルを踏襲しているが、香港や他の華人地域でもこの頃から衰退が始まる。 つまり、一般に着られていたのは 30 - 40 年程度ということだ。

私は今、編集や文筆をなりわいとしているが、87 年の上海留学から、中華民国期(12 - 49 年)の中国服を集めはじめ、所有数は 100 点を超えた。 きっかけは、上海の古書店で見つけた「家庭」という古い女性誌に載る女性たちの旗袍姿だった。 既存のイメージとは正反対の、実用的でたおやかな着姿が、言いようもなく美しかった。

当時の上海は租界当時の洋風建築が立ち並び、昔の趣を残していたが、再開発で惜しげもなく壊されていくさなかでもあった。 往時の上海を伝える何かを残したい。 そう思い始めた直後だった。 「これだ!」と上海中の骨董店を回ったが、当時美術的価値がなかった中華民国期の服が出ることはほぼなく、芳しい成果はなかった。

初のコレクションは翌年夏、北京で見つけた 30 年代の旗袍。 当時は高い襟にボタンをたくさんつけるデザインが流行したが、その旗袍は 5 つもボタンがつく、とても珍しいものだった。 探し始めてから半年以上が過ぎていた。

90 年に上海を離れ、93 年から北京に住む。 わずか 3 年で市場経済が軌道に乗り、人々が豊かになったせいか懐古ブームが到来していて、骨董市場に中華民国期の服や雑貨などが出回るようになっていた。 時代考証にと広告ポスターや小物を買い集めたり、モードの最先端だった上海まで足を運んで良いものを厳選したりと、コレクションは順調に増えていく。

だが、中華民国期の服飾研究はほぼなく、時代考証には苦労した。 片っ端から現物に触れ、少ない写真資料や広告ポスターから年代を推定する孤独な日々が続く。 すると、服が持つ数々の「物語」が見えてきた。

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アールデコがテーマ

上海で求めた黒繻子(しゅす)の旗袍(= 写真) はその好例だ。 丈長で襟が高く、30 年代半ばの流行が見てとれるが、メタリックな顔料で描かれた花と、スリットからのぞく裏地レースの直線的なデザインから、アールデコをテーマに仕立てたとわかる。 フィンガーウエーブの髪形とハイヒールで決めた持ち主が、ダンスフロアでステップを踏んだ音楽は、やはりスイングジャズだったのだろうか。

和服との意外な共通点も見える。 当時、日本では、繻子に油絵の具で手描きした名古屋帯が流行した。 この旗袍も黒繻子で、定番の中国刺繍ではなく手描きだ。 今まで見た数々の旗袍にも、図柄を手描きしたものはなかった。 当時、上海に住む日本人は 2 万人以上いた。 上海の街で見かけた手描き帯に触発されたのなら、それも面白い物語だ。

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中国から反響大きく

昨秋、関西学院大学博物館(兵庫県西宮市)で中国服の展示を行った。 終了前に図録が売り切れるなど、日本にもファンが多いと実感したが、驚いたのは中国からの反響だった。 北京から来た専門家は愛好家の口コミで知ったと言う。 レトロブームが過熱気味の今、1 着数万元(1 元は約 16 円)の値がつくこともあるそうだ。

今後の個人的テーマは「地域差」。 瀟洒な上海、伝統重視の北京、鮮やかな色遣いの広東と、往時の中国服には地域差が見られる。 日本統治で独自の発展を見せた台湾も面白い。 彼女たちが服に託した様々な「物語」をひもとく作業はまだまだ続く。 (広岡今日子)

(日経新聞 = 8-31-18)

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