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釜石のラスト・ゲイシャ、伝える座敷唄 八王子に響く

鉄と漁業のまちとして栄えた岩手県釜石市の活気を伝えながら、途絶えかねなかった伝統の唄と踊りが、東京・八王子のお座敷で輝きを取り戻した。 八王子の芸者たちが東日本大震災の直後、87 歳の「釜石最後の芸者」に着物や三味線を届けたのが縁となり、500 キロ近く離れた土地で客を楽しませている。

♪奥州(おく)で名高い釜石浦は いつも大漁で繁盛する
♪しける覚悟の荒灘稼ぎ 肌の守りはお崎様
♪おらが旦那は沖漁が好きで 不景気知らずの大当たり

八王子市の料亭のお座敷に 8 月中旬、「釜石浜唄」が響いた。 市内の芸者置屋「ゆき乃恵(のえ)」の女将(おかみ)、木村めぐみさん (52) の三味線と唄に合わせ、2 人の芸者が作り物のカツオとイカが入ったかごを手に踊る。 威勢のいい歌詞やユーモラスな小道具とは裏腹に、唄も踊りもゆったりと、どこか悲しげなのが印象的だ。

釜石浜唄はもともと、釜石市の藤間千雅乃(ちかの、本名・伊藤艶子)さん (87) が長くうたい、踊ってきた。 製鉄と漁業で栄えた三陸のまちに戦前から伝わる民謡で、地元の宴会では「定番曲」。 釜石が舞台の映画「釣りバカ日誌 6(1993 年公開)」では、西田敏行さん演じる主人公のハマちゃんの前で千雅乃さんがうたい、全国にも知られた。

だが、製鉄所の縮小や遠洋漁業の衰退とともにまちの人口は減り続け、宴会もめっきり減った。 50 人ほどいた芸者は千雅乃さん 1 人になり、お座敷や地元のイベントなどでは、自身が吹き込んだ三味線と唄の録音に合わせて踊ってきた。 芸者がいる繁華街や温泉地の「花街(かがい)」では、地元の師匠や先輩が新人の芸者だけに伝える地域の唄や踊りは、他の花街では披露しないのが不文律とされる。 全国で演じられる「越後獅子」、「さわぎ」といった演目もあるが、後継者がいない釜石浜唄は、まさに風前のともしびだった。

「芸だけは奪われなかった」

「ラスト・ゲイシャ」 11 年春、千雅乃さんは、国内外のメディアでこう紹介された。 東日本大震災で自宅を津波に流され、愛用してきた着物や三味線などもすべて失ったが、「芸だけは奪われなかった」と話している。 (上栗崇)

(朝日新聞 = 9-8-14)

芸だけは奪われない 岩手・釜石最後の芸者、青森で公演

【鵜沼照都】 東日本大震災で、家から三味線、着物まで全てを津波で流されながら復活した岩手県釜石市の「釜石最後の芸者」藤間千雅乃(ちかの、本名・伊藤艶子)さんが 5 日、青森市の浅虫温泉にある「辰巳館」で「米寿の踊りと唄」を披露する。 午後 4 時半からで入場は無料。

千雅乃さんは、一昨年 3 月の震災で被災し、避難所暮らしを余儀なくされた。 ショックと喪失感で生きる気力を失い、一時は酸素吸入が必要なほどに衰弱していた。 しかし、同年 6 月に青森県などが避難者向けに行った県内温泉地への小旅行「ほっと一息プロジェクト」で浅虫温泉を訪問。 2 泊 3 日の滞在を契機に気力を取り戻し、多くの支援を受けながら復活を果たした。 その様子は「The Last Geisha」として、海外メディアにも多数取り上げられた。

千雅乃さんはその後、大震災の教訓をうたった「スタコラ音頭」を作曲。 「釜石復興」のシンボルの一人として、各地で公演活動を続ける日々を送っている。

(朝日新聞 = 12-5-13)

被災芸者に着物のプレゼント = 豪出身の「紗幸さん」 - 岩手・釜石

初の外国人芸者紗幸さん(芸名)が 4 日、岩手県釜石市の最後の芸者藤間千雅乃(本名伊藤艶子)さん (84) が暮らす同市の仮設住宅を訪れ、着物と帯を贈った。

伊藤さんの自宅は津波で全壊、着物などの商売道具もほとんど流された。 被災状況を報道で知った紗幸さんは、面識はなかったが「(芸者にとって)着物は仕事着であり財産」と、紺色と黄緑色の着物 2 着と帯を手渡した。

震災後初めて着物に袖を通した伊藤さんは「感触、思い出す」と感慨深げ。 「これを着て踊りたいね」とうれしそうに踊るまねをした。 「モノは流れても私の芸は流れない。」 米寿まで現役を続けられることを望んでいるという。

紗幸さんは、母国オーストラリアから 15 歳で留学生として来日し、慶応大などを卒業。 テレビのプロデューサーとして国内外メディアの番組に携わる一方、芸者に憧れ、2007 年にその道に転身した。 この日贈った着物は紗幸さんが 3 月に東京に開いた着物店のもので、「幅広く使えるように」と伊藤さんに似合う色を選んだという。

(時事通信 = 8-5-11)

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